平成24年度夏期シンポジウム報告

 ◇シンポジウムテーマ:ポスト3.11の教育を考える
             −これからの高校教育の在り方を探る−

 

 開講式あいさつ(辻 敏裕 高経研会長) 

 

  皆様おはようございます。

 全道各地からご参加いただきましてありがとうございます。

 本道の高等学校教育の改善充実に熱い情熱と強い意志をお持ちの先生方がこんなにもたくさんいらっしゃることにたいへん心強く感じているところであります。

 さて昨年の3月11日の東日本大震災から1年4か月あまりが過ぎました。この未曾有の大災害は、東京電力の福島第一原発事故と相まって我が国のこれまでの在りようを根底から覆すものでありました。しかしながら、安心・安全といった未来社会の構築に向けた十分な議論や復旧・復興についても、いまだ進んでいない感があります。政局も、社会福祉と税の一体改革をキーワードに消費税問題に明け暮れておりまして混迷の極みにあります。

 まさに我が国全体が閉塞感に覆われている状況にありますが、この状況を打破し明るい未来を構築するため、我が国の将来を担うエリート人材の育成に全力を尽くしていかなければならないと思っております。

 繰り返しになりますが、3・11−東日本大震災は我が国のターニングポイントです。大胆な変化を実行するチャンスをやり過ごすことのないように、今こそ日本の社会の在り方を正しく捉え、これからのあるべき教育の姿を明確にする必要があります。特にこれからの安心・安全な社会を築き上げていく市民社会の形成者、それをリードする真のエリートの育成が、我々教育に携わるものの使命だと考えております。

 本研究会では昨年からポスト3・11の教育をキーワードに、2030年−すなわち20年後の社会を見据えた教育の在り方を探っております。具体的には、21世紀の知識社会を見据えて情報と知識の関連やグローバルとローカルの両方を見据えたグローカルをキーワードとした新しい市民性教育の在り方について研究を続けています。私たちは教育の可能性と力を信じ教育のあるべき姿を求めております。そうした教育の結果、社会の一隅を照らす真のエリートがたくさん育ち、彼らが社会をつくりあげるよき実践者となれば、その社会はまさに安心・安全な信頼社会となるはずです。

 本日のシンポジウムでは、昨年の夏に引き続き日本大学の広田照幸教授をお招きし講演いただき、今後の高校教育の在り方について具体的な提言を基に議論を深めてまいりますので、ご参加の皆様方からも積極的なご意見をいただければ幸いです。

 

 せっかくの機会ですので、関連したいくつかのお話をさせていただきます。

 皆様ご存知のとおり、現在、中央教育審議会初等中等教育分科会高等学校教育部会におきまして高校教育の質の保証をテーマに今後の高校教育の在り方について議論が行われています。高校教育の質の保証に関わっては、2年前の夏期シンポジウムにおきまして「新学習指導要領と学力問題−高校教育の質の保証−」の研究課題の下、当時北海道大学公共政策大学院特任教授でありました佐々木隆生先生から「高大接続テスト(仮称)と教育改革」の演題で講演をいただいております。実質的な大学全入時代に突入し現状の大学入試制度では高校教育の質の保証を担保することはできなくなってきている。また、たとえば理系志望の高校生でも文系の岩波新書を読むのが当たり前といったかつての隠れた教養主義が失われていって久しい。佐々木先生は、こうした高校教育の現状を、「やせ衰える大学教育」、「底が抜ける高校教育」といった強烈な言葉で憂えておりまして、その解決策として高大接続テスト(仮称)を提言されていらっしゃいました。この高大接続テストそのものにつきましては、陽の目を見ていないのが現状です。これは文科省サイドの拒否反応があったようですが、それだけ高大接続テスト(仮称)の導入は強烈な提言であったように思います。この提言の影響もあったようですが、今、国家戦略会議から大学改革実行プランが発表されております。プランの具体例として4点ほどありますが、1つは1点刻みではないレベル型の成績提供方式の導入によるセンター試験の資格試験的活用の促進、それから思考力・判断力・知識の活用力いわゆるクリティカルシンキング等を問う新たな共通テストの開発、そして大学グループ別の入学者共同選抜の導入の促進、さらに志願者と大学が相互理解を深めるための時間をかけた創意工夫ある入試の促進、が書かれておりまして、可能なものから逐次着手するようであり、今後中教審などで検討が進められると思いますが、注目していく必要があると考えております。

 また、現在中教審の高校部会で検討が進められようとしている内容につきましては、すでにご承知のことと思いますが、たとえば高校を大学進学者の多い高校、職業系の高校、課題の多い高校などの機能別グループに類型化し、それぞれの質保障を考えるといった方向性を示しております。今後高等学校教育において全ての生徒に共通に最低限修得させるべきもの、すなわち高校教育のコア(核)となる主体的な学びの構築や東日本大震災から得た教訓への対応が課題として取り上げられることとなりますが、具体的には市民性教育あるいはキャリア教育が論点になると言われております。

なおこの中では、東日本大震災の教訓として地震・津波に関する防災教育の充実を求めており、新たな指針と避難訓練の在り方が示されておりますが、こうした動きには、個人的にはやや違和感を覚えております。象徴的な事例として、昨年のシンポジウムでも紹介しましたが「釜石の奇跡」があります。ここから学ぶ本質とは、「想定に捉われない」「その状況下で最善を尽くせ」「率先避難者たれ」の避難三原則であり、これが極めて合理的だと思いますが、極論を言わせてもらいますと、ある想定の基に作られているマニュアルとそれに基づく訓練の繰り返しに本質的な意味があるのかどうか、ということではないかと思います。たしかに、ある行動をとるということは何らかの想定の下で行われるものですから、常にこの避難三原則を念頭に置いた訓練ということになるのでしょうが、本来の訓練とは被害の規模等を想定外とした理由などその判断根拠に対する科学的姿勢が問われているのではないかと受け止めております。だとすれば、教育の分野に大きく関わるものと考えますし、ポスト3・11の教育を考えるということは、まさにその点にあると個人的には捉えております。

つぎに東京大学が提唱している秋入学制度について言及します。

東京大学が現行の春入学制度から秋入学制度への全面移行を提言した理由というのは、日本人学生の海外留学、留学生の受け入れが学部段階で低調であるということにあります。秋入学が国際標準になる中、現行の学事暦は教育の国際化の大きな制約要因となっているということから、グローバル人材の育成に向けて大学における国際化が急務である、ということを理由にしております。TPPの問題あるいは欧州経済危機など世界経済の大きなうねりの中、グローバル人材の育成が急務であるということで、大学のみならず、政財界を巻き込んでの大きな議論となっておりまして、様々な意見が表明されております。教育サイドでみますと、高校卒業後大学入学までのギャップタームをどうするか、それから4月入学に合った制度となっております公務員試験あるいは医師国家試験などの就職に関するシステムをどのようにするのか。また学期ごとに授業を完結させるというセメスター制度の徹底をどうするのか、など社会制度との整合性を含めて様々な課題が出てきております。これを受けて文科省は、2年間で高校を卒業する制度の検討を始めようとしておりまして、これはまさに高校教育の意味の問い直しが行われようとしております。

高校教育関係者が危機意識、あるいは課題意識を持って真剣に議論をしなければいけない状況にありますけれども、実際には大学や企業関係者の議論を傍観しているという現状にもあります。なお、ここではグローバル人材の育成がキーワードになっておりますけれども、グローバル人材とはどのようなものか、これは国家戦略会議のグローバル人材育成推進会議の審議のまとめに定義されております。その議論につきましては、午後からのシンポジウムで行われることと思いますので、そちらのほうに譲りたいと思います。

 いずれにいたしましても、批判的な思考力で分析・判断し行動に結びつける民主主義の担い手としての市民性−シチズンシップをしっかり身に付け政治に積極的に参加する意識を育てることが、今後大切になってくるものと考えています。これからの教育においては、そのことが強く求められてくると思いますし、本日のシンポジウムでもそういったことを柱に議論を深めていければと思っております。本日皆様のお手元に配布している研究紀要についてですが、冬期フォーラムの講演記録のほか、昨年夏のシンポジウムにおける広田先生の講演内容につきましても、広田先生のご了解の下再掲させていただいております。本日のシンポジウム資料としても価値の高い資料と自負しておりますので、ぜひご活用いただければと思います。

 最後に本研究会の本年度における例会活動について若干報告をさせていただきます。

 今年は第14期の中教審答申以来の教育改革の動向について、本道の高校改革の実態を踏まえて総合的に検証するとともに、ポスト3・11の教育を新たに展望し1冊の本にまとめて年内には全国に発信したいと考えております。高経研会員の皆様には限られた時間の中鋭意執筆にあたられてきましたが、いましばらくご協力願えればと思います。

 本日の研究会が参加されている皆様にとって有意義で実りのある研究会となるように期待をしております。どうぞよろしくお願い申し上げます。

 

 

  基調講演 (広田 照幸 日本大学文理学部教授)
  ◇演題:社会変動を見すえた高校教育像をどう考えるか 〜学びの意義をとらえ直す〜

   〔H25高経研夏期シンポジウム「研究紀要第4号」掲載 (H25.7.29発行)〕

                     

                                 

 

〔1〕はじめに

 皆さんおはようございます。

 去年は教える側がどうのように考え方を転換していくべきなのかといった話をしました。そこでは、これまでの教育の中で忘れられがちだった視点として、「未来社会の担い手を育てること」をきちんと意識してほしい、という話をしました。

 今年は、昨年の質疑の中でも出た論点を少し広げていって、これからの高校教育について考えていきたいと思います。

 前半では、大きな社会の変化をどう見るかを考えましょう。その上で、高校教育のやるべきことをどう考えるのかについて後半でお話したいと思います。

 講演のタイトルは、「社会変動を見すえた高校教育像をどう考えるか」となっておりますが、社会変動を見すえるのはたいへんむずかしいですね。不確実な要素が多すぎる。ですが、いくつかの点は言えそうな気がしますね。それは資料の1ページ目にいくつか載せておきました。そこにはあらかじめ全体の話を数行にまとめてあります。

1つは高度経済成長期につくられた教育モデルには限界がきている、ということです。そろそろ発想の転換が必要だという話を最初にします。

2つめは、これからの社会の在り方を考えたときに、今後も学歴社会は続いていくものの、だからといって学歴で人生が安泰になるわけではない、という話もしていきます。まあ、会社も個人もルーティーンを超えるような、自分の頭で何かを考えて新しいものを作り出していくようなことが必要になってくるはずだ、という話です。だから、学歴のために学習をするんだ/させるんだという考え方を見直す必要があるということですね。

3つめに、大多数の人にとって重要なのは、社会の不透明さを考えていくと、「自分で学び続けられる能力」が重要で、それを高校教育レベルで身に付けさせてほしい、という話をしたいと思います。

4つめは、教育の成果というものは、どうしても形で表されものを追求しがちですけれども、少し長い目で見て子供たちに何が必要なのかといったことを考えて、そこに向けて教育をしていただきたい、という話をしていきます。

 

〔2〕社会変動のゆくえ―日本の社会はどうなるのか

それでは最初に社会変動の話から入ります。

先ほど「社会変動を見すえるのはむずかしい」ということを話しましたが、この間大きな社会変動が生じて、高度成長期につくられてきた社会の在り方の見直しが進んでいることは確かです。    

たとえば、マクロな経済を見ると、1985年のプラザ合意による円高ドル安に誘導されて、日本の企業は必然的に海外に出て行かざるを得ないわけで、その結果、日本の企業がグローバル展開していき、そして必然的に経済のグローバル化が進展していく。さらに2008年のリーマンショックのあと、それまでの先進諸国の中心の軸からインドや中国などの新興国へ国際経済のポイントがシフトしてきている。また、1991年のバブル崩壊のあとは内需拡大による景気浮揚策の限界に行き当たっている。まあ、この手のことをずっと並べると1960年代から1970年代の高度成長期に作られた日本社会の仕組みの様々な面が行き詰っているということは言えるでしょう。

今後はどうなっていくのかと考えると、私は3つのモデルがせめぎあっていると考えています。1つは新自由主義的なモデルですね。昨年も少しお話しましたが、政府の再分配や市場についての規制が経済の足を引っ張っている。だから、それらを縮小・撤廃して経済成長していく、市場原理を活用して経済成長していくというものです。その牽引者になるような人材−エリートが価値を生んでそのおこぼれを人々に分け与える、これをトリクルダウンと言いますが、そのようなモデルですね。小泉改革はこれだったですし、現在のみんなの党や大阪の橋下改革の論理は、これにあたると思いますね。わたしは個人的にはこの考え方に同調しませんが、これを支持する人たちもいるのは事実です。

2つめは、社会民主主義モデルと名前を付けておきますが、政府の手厚い再分配や市場の規制が社会の質を高めるという考え方ですね。このモデルには、すぐ後で述べるように、2つのバリエーションがあると思います。1つは伝統的な福祉国家モデルであり、もう1つは1990年代頃からヨーロッパで見られるような「新しい社会民主主義」、「新しい福祉国家」モデルです。イギリスのブレア政権なんかがそうですね。

ブレア政権なんかは少し微妙だったですが、これらの基本は「大きな政府」−手厚い再分配や規制を政府がしっかりやる、平等主義的で比較的高い賃金を払うとともに福祉も充実させて社会全体の仕組みでお互いを支え合う−ということですね。

この社会民主主義モデルをさらに細分化しますと、まず1つは、「伝統的な福祉国家モデル」です。これは高負担ですが高福祉の社会、権利として十分な水準の生活が保障されるような社会のイメージです。ただ、これは経済の順調な拡大、経済成長を基にして税収が確実に増えるという前提があるからこそ成り立ってきたというふうにいえます。そのため経済が行き詰ってくると伝統的な福祉国家は行き詰ってくる。ヨーロッパではこれを経験してきています。

 もう一つは、「新しい社会民主主義」「新しい福祉国家」モデルです。これは、ヨーロッパで社会民主主義モデルがリニューアルしていった1980年代から1990年代にかけて主流となったものです。これらは、福祉国家のいくつかの原則を変えません。たとえば平等で質の高い教育で国民全体の生産性を高めるといったことは重要なわけです。しかし、教育を重点戦略に据えて、特に給付を受ける引き替えに就労訓練や社会参加を義務付ける(「アクティベーション」と呼ばれています)。また、たとえば、北海道大学の宮本太郎先生なんかがスウェーデンの例を紹介されていますけれども、不採算産業から新しい産業へ乗り換えるために、国家が責任を持って大規模に産業間の労働力移動を行っている。古い産業をリストラして、情報産業や環境産業など新しい産業へ振り向けていったりしています。すなわち、労働力の質を高めつつ効率的な労働市場改革をやって、福祉国家の再活性化を図っていこうというわけですね。これらの考え方が1990年代から拡がっていきました。

英国のブレア政権は、果たして「新しい社会民主主義」と呼べるのか、むしろ新自由主義の深化版ではないかといった議論もあるし、北欧諸国の改革も新自由主義の影響を強く受けつつあるので、理論モデルの明確さに比べると、現実の諸国家は結構折衷的であいまいです。

 ここでは理論モデルの話として聞いていただいて、今の話を教育のあり方の問題に絡めて話します。資料の6ページの表をごらんください。

 新自由主義的なモデルと社会民主主義的なモデルとでは、学力のモデルが違うといえます。この表はフリップ・ブラウンとヒュー・ローダーというイギリスの研究者が「ポスト・フォーディズムの可能性:国家発展の二者択一的なモデル」という中で書いております。フォーディズムというのは、伝統的な大量生産の資本主義のことですね。そこから2つの道に分かれるというのです。

1つは、ネオ・フォーディズムであり、生産性の増大、コスト縮減を通じたグローバルな競争、「市場の柔軟性」によってひきつけられる内部への投資、さらに下を見ますと、規格化された製品の大量生産、低熟練・低賃金、といった言葉が並んでおります。これは何かというと、ネオリベラルな経済システムでは市場原理をしっかり働かせる代わりに労働者の技能はそれほど高くなくていい、というモデルなわけです。だから勉強したくなかったら勉強しなくていいからその代わりに低賃金で働いてくださいという社会ですね。アメリカなんかはこのイメージに当てはまりますね。

 もう1つは、ポスト・フォーディズムです。これは社会民主主義をリニューアルしたものに該当します。それは、技術革新、質、付加価値的な財やサービスを通じたグローバルな競争、「付加価値的な」生産・サービスに従事する高度に熟練された労働力によってひきつけられる内部への投資、また、フレキシブルな生産システム、小さなバッチ・ニッチ市場、高賃金、高熟練への職の移行、といった内容で、全ての人がレベルの高い教育を受け学力を身に付けることが生産性の強みである、という社会のあり方ですね。

ですからここでは、社会のあり方とそれに対応する教育のあり方の「最適解」は2つあるのだ、といえるかもしれません。新自由主義的なモデルは、余計な費用は掛けないで誰かが作ったすぐれたアイデアを最も安い賃金で生産する、という社会であり、いわゆるこれがネオ・フォーディズムです。ですから、高校も質的に多様化してきているからそんなにいらない、とか、大学も数が多すぎるから減らせ、といった論理はこれに当てはまりますね。それに対して、もう1つのポスト・フォーディズムは、最底辺から底上げをしていくことで社会全体が高い学力を持った人たちで満たされる。そうすると高度で熟練な産業を引き付けることができる、そうした経済国家をつくりましょうという論法です。今国際的には、ネオ・フォーディズムとポスト・フォーディズムが争っているという状況がここ20年ばかり続いている、と考えることができます。

ただし日本には、もう1つのモデルがある。いわゆる高度成長期型日本モデルです。これはネオ・フォーディズムともポスト・フォーディズムとも違う社会です。それは、政府による再分配は、地域間の再分配が主であったこと、また雇用を生む公共事業に力点が置かれてきたこと、ダムを造ったり道路を造って雇用を産んできたんですね。中央からの補助金などで地方の雇用が確保されることで地方の経済が回るんですね。個人の福祉の半分は家族で賄い、残りの半分は企業が負担する。ですから、国が責任を持つ福祉の水準はそれほど高くはなく、中福祉中負担の国家。

そうした中、均質で比較的高い水準の日本の教育は、組織の調和を重んじる「日本株式会社」の社会風土に適合したわけです。まあ、詳しい話はしなくてもみなさん分かりますね。高度成長期は社会全体が豊かになる、みんなで働き、雇用の半分は国が創り出す側面もあって、家族と企業とがみんなの人生を支えていく。そこでは、画一化した教育行政と受験競争とで教育の質を保証する、という仕組みが抱き合わせになっているんですね。

まあ、経済成長して社会のパイが拡大しているうちは、このモデルでうまくやれてきたんですね。教育は横並びで共通のものさしで競争をする。一律の尺度で競争をさせることで、潜在的な能力を持った人を社会は選び出すことができる。そして企業はその潜在的な能力を買う、すなわち、学歴を指標にして雇用する、という形が出来上がります。ですから「何を深く学んだか」なんて専門性などはいらないわけです。東大を卒業したのなら潜在的な力はあるだろう、と判断されたわけです。企業はこのような潜在的な力を買って会社の中で長期雇用を続け、いろんなスキルや能力をオンザジョブで伸張させていくわけです。

つまり「詰め込み知識」競争の大学受験競争と大学教育の中身が問われないということと、企業による日本的長期雇用とはセットになっていた。1970年代初めのOECDの教育調査団は、「日本は18歳で人生が決まってしまう社会だ」という言い方をしていました。「大学で何を深く勉強したかはどうだっていい」と企業が言うので、大学生の多くは遊んでたわけです。

ちなみに大学で遊ぶのは悪いことではありません。ちょっとこういうお話をしておきましょう。戦後の改革のときに新制大学では、旧制高校(大学予科)と帝国大学(や旧制大学)とが一緒になりました。3年制の旧制高校は、ある意味、知的な人格の成熟が役割でした。3年制の帝国大学のほうは、ある専門分野の深い考察が役割。それを併せて四年間に切り縮めて一緒にしたんですから大変です。専門の学習の方も大変ですが、大学に人格の成熟の面も求められることになった。四年間の中で人格を成熟させることは必要なことだったんですよ。だから、大学四年間の中で勉強したい者はするし、勉強したくない者はいろんな経験や思索の時間にして、人格を成熟させていったというわけです。ぼくは、学部時代は人格の成熟のほうが大きかったですね・・・(笑)

ともかく日本型モデルでは、高校までは一定の課題をどこまでこなせるか競争する。それで潜在的な能力を証明する。それが経済システムとうまくリンクしていた。そういう意味では、新自由主義とも社民主義とも関係ない、日本型モデルでいいのではないかと思うわけです。しかし、その日本型モデルで経済を維持できなくなってきているというのが、今の現状なわけです。だから、後で述べるように、教育もあり方を見直してみるべき部分がある。

ここからは、今後の未来を考えていかなければなりません。経済成長が鈍化していく時代に、1991年頃のバブル崩壊から低成長時代に入っていったわけです。低成長ばかりでなく、少子高齢化、円高も続いている。そんな中で、経済が順調に右肩上がりであれば成り立つ仕組みが、いろんな部分で成り立たなくなってきている。地方への再分配も厳しい状況ですね。地方は自分で生き残りを考えろ、とさえ言われてきている。また、家族は個々の成員の自律性が高まっていく、企業の福祉は退潮するし、それどころか、企業が自分の一生を丸ごと抱えてくれる、なんて見込みを持てる人生を期待できなくなっている。1990年代の半ばに労働者は三つに分類され、正社員になれる人材を絞り込んでいこうという流れに変わってきていますからね。「派遣」が問題化したかと思うと、今度は「限定正社員」が議論されるようになってきています。

そうすると、1つ目に、若者全員に「よい仕事」を提供がすることできなくなった。高度成長期からバブルの頃までは、少々うまくいかなくても人生はなんとかなる、十分な学歴はなくともビジネスチャンスはあったし、いずれはどこかで正社員になれるだろうと考えることができた。例えば1980年代ぐらいまでは、中卒でも正社員になれる率は高かった(乾、××)。経済が好調なときは、ほとんどの人の人生はなんとかなる、というのがバブルまでの特徴でした。

ところが、90年代からの20年間は誰もがいい仕事には就くことはできないということが顕在化してきた時期です。たとえば高校生の労働市場が冷え込んで、非正規雇用から抜け出せない状況になってきていることは、全国統計からも明らかとなっています。ですから、中卒どころか高卒でも正社員になりにくい。現在では大卒も同じような状況です。偏差値上位の有名校は別として、偏差値が下の方の大学は正社員になるのがなかなか難しい。

2つ目として、仮に正社員として就職したとしても、その後の人生は決して安泰ではなくなった。もっと簡単に首を切れるようにしよう、という話が動き出しています。それぞれの企業が、正社員の人生をまるごと保証するということがなくなりつつあるのかもしれない。「〽サラリーマン、気楽な稼業ときたもんだぁ〜」とはいかなくなってきたわけです。

このように、日本的な仕組みがうまくいかなくなってきた。そこで今後の見通しとしては、3つあると思います。

一つは、これまでの日本的な仕組みを微修正で手直ししながらなんとかやっていこうという動き。2つめは、新自由主義的な仕組みに転換していこうという動き、そして、3つめには、会社主義の陰に隠れてこれまで日本では発展させられてこなかった、社会民主主義的な仕組みをきちんと作っていこうという動きです(たとえば、新川、××)。日本モデルで行くのか、アメリカをお手本にしていくのか、北欧なんかをモデルにしていくのか。――どこに行くかは未確定です。選ぶのは世論です。

未来は不確定ですが、ただ確実に言えるのは、どういう方向を選ぶにせよ、かつてのような潜在的な知的な能力を高校までで示すやり方ではなくて、もっと知識の活用をきちんと見越したことを考えていかなければならないということです。「何のために学ぶのか/教えるのか」がきびしく問われるような時代になってきています。

現在、民主党の新しい教育政策の議論の一部では、大学進学率をもっと上げるようなモデルが議論されています。そこでは、「一生学び続ける社会」が提示されています。流動的で不透明な未来に向けては、誰もが学んだことを活用していくことが必要であるというコンセンサンスで議論が進んでいるようです。上記の3つのモデルのいずれにしても、社会の変化の中で人は学び続けていかなければならないわけです。新自由主義では労働市場で生き残るために、社会民主主義では社会に参画していくために、そして日本的モデルの修正版では勉強し続けて企業の役に立ち続けるために。いずれにせよ、「窓際族」なんて語は死語になってしまうかもしれません。

企業は労働者の雇用に際して、しっかりと人物を見きわめようとしています。現在では、出身大学名だけで雇用される時代ではなくなりました。何を身に付けてきたのかが厳しく吟味されている。企業のグローバル展開や情報化社会により、事業が急速に変化していくようになると、入社から退職まで同じ職種を継続していくということはなくなってくる。次々と起こる変化に対応する力が求められるようになる。就活生も必死ですが、企業の側も一生懸命です。

もう一つ大きな変化が生じてきている領域として、政治の話をしなければなりません。去年のシンポジウムでも少しお話ししましたが、高度経済成長の日本型システムとは、庶民は自分たちで何もしなくてもいい時代であったわけです。中央の官僚が様々なことを考えて地域開発してくれる。あるいは、地元選出の政治家がプロジェクトを引っ張ってきてくれる。この時代は自民党が長期政権を維持していましたから、政治について判断することもなく、人々の考え方もなおさらそうであったわけです。賃金を上げたり安定した身分を保障したりするようなことは、労働組合が強かったから、組合がやってくれる。だからまあ、誰かにお任せの社会ですね。

ところが、高度成長が終わり、地域のことを住民が考えなければならないようになるとお任せ社会ではたち行かなくなる。住民も政治的に成熟していかなければならない。自分たちで地域を活性化する必要がある。また、労働組合のない職場が広がって、自分たちの雇用に関わるルールの問題に、個々人がいきなり直面してしまうことにもなったりしている。

そうすると、高校生にいろんなことをしっかりと身に付けてもらう必要がある。卒業後地元に就職する彼らが何かを考えて自分で行動していく力を養うことが必要です。

「ゆるキャラ」ブームとか、「B級グルメ・グランプリ」とかが、今の時代の地方に必要なものを考える際の典型かもしれません。どういうものをコンセプトとして打ち出し、どうプロデュースして、どのように地元の個々の商工業や農業とつないでいき、地元の産業の活性化に結びつけるのか。地元の人たちの知的資源――アイデアや行動力など――がカギになります。こんなものに「正しいマニュアル」や「必勝法」なんてのはないですね。いや、そう謳うものはあるのかもしれませんが、それに沿ってやっている限り、たいした成功はない。一人一人が自分で新しいことを考えながら行動する。それが結集しないと地元の産業の活性化まで結びついていかないですよね。 

 

〔3〕新しい時代に向けた高校教育

さて、こうした社会の変化の中での高校教育の話をしていくことにしましょう。

高度経済成長期までは、高校では、できるだけよい進学先に送り込む進路指導をしていればよかった。たしかに、今でも学歴は重要です。ただ、これからの高校では、よい学校に送りこめばよい就職先が待っておりよい人生が送れるはずだ、という高度成長モデルの指導を見直す必要がある。学歴で人生が安泰という時代ではなくなってきていることを考えると、学歴よりも学力の中身を、教える側がきちんと考える必要があると思います。

それでは、何点かの具体的なお話をしていきます。

まず、学歴の格差で得るメリットはごくわずかなものだ、という話です。資料を見てください。表5−1は、大正8年における財閥の学歴による初任給の格差をまとめたものです。左端の三菱を例にとりますと、一番上の第1グループは帝国大学卒、一番下の第7グループは専門高校卒です。相当の格差があることがわかりますね。つぎに表5−2を見てください。これは戦前の国鉄の学歴別年齢別の賃金格差をまとめたものです。帝国大学卒と尋常小学校卒とを比較すると、20代までは賃金格差は約3倍程度ですが、40代の後半になると約9倍に開いてきます。このように戦前の日本社会は圧倒的な学歴による格差の社会であったことがわかります。

ただ、戦後はそうでもなくなってきている。表5−3を見ると、初任給については中卒・高卒・大卒の格差は戦前ほどはないことがわかります。しかし、表5−5、表5−6でわかるように、高学歴=偏差値の高い大学ほど従業員規模の大きな会社へ就職する率が高くなります。そして、従業員規模の大きな会社ほど生涯獲得賃金が高くなることがわかります。まさに高度成長期の高校教育では、ここが進路指導のポイントでした。偏差値の高い大学へ進んで大きな会社へ入ることがよい人生なんだから、おまえたちがんばって勉強しろ、というわけです。ただ、その差は戦前に比べればわずかなものになっています。学歴と所得を国際的に比較した表V―1を見てください。これは、OECD諸国と日本を比較したものですが、日本はどの国よりも大卒と高卒の格差が小さいことがわかります。他の国々は大学を卒業することが大きなメリットを持ちますが、日本はそうではない。

つぎは、そもそもよい進学先に送り込む指導をみんながやったとしても、誰もがそれでよい結果を手にするわけではない、という話です。大学進学率が上がってきているものの、結果として、大卒でも非正規雇用に就かざるをえない状況になってきているわけです。トップランクの大学以外の多くの大卒の層では、大学を出たからといって必ずしもよい就職に結びくわけではない状況が増えてきていることからも明らかです。

もう一つ、現在の高校生たちが、高度成長期型の進路指導に乗ってこなくなってきている現状をどう捉えるか、というのが大事なポイントですね。「あれこれ考えずに入試に向けて全力を注げ」というふうな指導では、なかなかうまくいかなくなってきている。高校生の学校外における平日の学習時間の推移という図を見てください。これはおもしろい図です。高校生を偏差値ごとで比較したものですが、1990年と2006年を比べると、偏差値55以上の子たちの家庭学習時間はそれほど減少していないが、もっとも層が厚い偏差値45―55までの層の子たちの家庭学習時間は大きく減少していることがわかります。

大学進学率が上昇してくると様々な入学者募集の方法が導入されてきました。その分、競争も減っており推薦入学やAO入試で大学には入れる。有名大学を狙わなければどこかの大学に入れるようになってきている。入試の圧力が減れば何のために勉強しているのかわからなくなってくるということも要因でしょうね。

ちょっとわたしの推測ですが、高校ではつぎのような現象が起こっているのではないでしょうか。中間レベルの生徒たちの勉強のやる気が下がってくる。そうすると、やる気のない生徒たちに合わせて先生たちが指導の工夫をする。たとえば、このプリントだけをきちんとやっておけばいい、といって赤点を取らない指導をしてしまう。そうすると、生徒は先生に言われたことしか勉強しない、余計な学習はしなくなる。どうでしょうか。こうした事態が起きているとすると、これは悪循環です。それが中間層の家庭学習時間を減らしている大きな要因だと個人的に推測しているのですが、みなさんいかがでしょうか。

それでは高校教育はどうしたらいいのでしょうか。辻会長も言われたようにもう一度勉強させるには、脅しをかける手がありますね。たとえば、「高大接続テストがあるからきみたちも勉強せよ」といったように脅しをかけて勉強させるんですね。これは一つのやり方ですね。でも本当にそれでよいのかと思います。大学入試が緩くなったから代わりのもので尻を叩くのであれば、結局、「疎外された勉強」を繰り返すことになるのではないかと思うんですね。生徒は何の意味があるのかわからないけれども、テストがあるからしょうがないといって勉強することにしかならないわけですね。そんな風に無理矢理勉強させても持続していくのかわからないわけですよ。脅されて学んだものは、その知識の意義や使い方に目が行きませんから、すぐに忘れてしまう。ですから、それではだめで、もっと意味のある勉強をさせましょうよ、というのが後半の話です。

それは、学歴のために仕方なく勉強させるというのではなく、高校で身に付けるべき学力とはどういうもので、どういう意義があるのかという点から高校教育を考え直してみてください、という話です。高校の勉強は入学試験のためだけなのか、ということです。

見直してみるべき際にヒントになるものを2つあげてお話しします。

1つは、桜美林大学の矢野眞和教授が唱えている「学び習慣仮説」です。これは、元々は大学教育は役に立つのか、という話ですが、高校教育を考える際にも関係するので紹介します。矢野先生は、工学系の卒業者である技術者たちを対象に、大学で受けた教育が技術者としての現在の地位にどれだけ役に立っているのかを調査しました。その結果が統計的に分析されたわけですが、結論だけ言うと、つぎのようでした。大学時代の学習熱心度や卒業時の知識・能力の獲得は、現在の技術者たちの地位や所得には直接に影響していない。ですが、大学時の学習熱心度が高い人は、卒業時の知識・能力の獲得度が高い。また、卒業時の知識・能力の獲得度が高いことは、現在の地位や所得の高さには直接的に影響を与えていないけれども、現在の知識・能力の高さに影響を与えている。そして、現在の知識・能力の高さが現在の地位や所得の高さを強く規定している。

興味深い結果です。大学で一生懸命学ぶことは、めぐりめぐって社会に出てずいぶんたった後の知識・能力の高さに影響を与え、それが地位や所得の高さにつながっている、ということです。工学系の知識は10年後には古くて役に立たなくなるんだそうですが、大学時代に一生懸命学んだ人たちは、入社後も最新の技術を学び続ける努力を継続することが多く、したがって、現在の最新の知見なんかにもついていっているから、技術者としての地位も高いわけですね。これが矢野先生のいう「学び習慣仮説」です。学生時代に学び習慣を身に付けた人は、その後の人生でも学び続ける。学校時代に一生懸命学ぶということは人生を通して役に立つのだ、ということです。

 これは、工学系の人たちを対象にした研究でしたが、文系でも同様の調査をやらないのかと思っていたところ、知り合いの濱中淳子さんが今年、論文を書きました。経済学部の卒業生を対象に、大学時代に学んだ経済学がその後の人生に役に立っているのか、という調査です。やはり、上述した調査と同様に、大学時代にしっかり経済学を学んでいた人は、現在の所属にはあまり関係ないけれども、その後も学び続けていて、地位や所得が高い、という結果が出ました。しかも濱中さんが見つけたおもしろい結果は、工学系の人たちと比べて経済学部系の人たちは、人生の後半でこそ、その効果が大きいということです。最初はあまり専門的な知識を必要としない営業職なんかに就いている人たちが、昇進等の時期を契機として、「学び習慣」が役立つようになり、新しいことを勉強していって、人生の後半で最新の知識や技能を身につけて活躍する、といった感じでしょうか。人生の後半になって差が現れてくるというのは、実におもしろいですね。

 矢野先生はこのように言われています。「実のところ結果は平凡な常識である。学習するという行為を習慣化し、成長体験を自覚していることが大事だと言える。激しく変化する環境の中で技術者が生きていくために、常に新しい知識・能力を向上させていかなければならない。その過程で重要なのは、大学時代の学習経験である。大学で学習に取り組むことで成長体験が蓄積され、学習が習慣化される。その習慣が卒業後の学習を持続させているのである。」

 まあ、この仮説には少しあいまいなところもある。学習内容が基礎となるのか、学びの習慣が基礎となるのか、どちらもあるんでしょうが、少なくともさらなる検証が必要です。ただ、高校にも適用できると思います。

 これを高校教育に適用したらどうなるんでしょうね。高校で学ぶ−高校で学ぶ知識は直接使わないかもしれないけれど、高校で学ぶということが、次の学習の基礎となっていく。このように、学び習慣化説を高校に適用してみるとおもしろいですね。

 わたしは、東大でも教えていたのですが、東大生と今教えている日大生とを比べて決定的に違うところは、「東大生は自分で学ぶ学び方を知っている」ということです。ある課題を与えられたときに、締め切り期限までに何をどうしたらいいか自分でデザインして仕上げてくる。しかも自分でいろいろと工夫をして、要求された水準以上のことをやってくるのが東大生ですね。日大生は情けないことに大半の学生が、与えられた以上のことはやってきませんね(笑)。言ったことはきちんとやるが言わないことはやらない/やれない。それはたぶん、受験への構えとか普段の勉強の仕方とか、高校時代の学び方が違うんでしょうね。

 先ほど言いましたとおり、高校の指導に関する今の悪循環、すなわち、受験の圧力の減少で生徒の意欲低下が起こる――意欲のない生徒に合わせて、教師が親切に工夫して最低限のことだけをやればよいやり方を工夫する――その結果、高校の勉強は適当にやっておけば卒業できる、というのは、とても危ない状況ですね。卒業させる優しさはあるけれども、本当に大事なものが身に付かないまま卒業させている、という状況に陥っている可能性があります。

「受験学力」とは別のものとして、「自分で学ぶ力」というものを考えていかなければならないと思うのです。これまで通り受験勉強を通して自分で学び方を工夫できるという生徒がいるような一部の高校では、今まで通りの学習方法で良いと思います。受験勉強への取組みを自主的に考えさせることをやろうと思えばできる高校もあると思います。ただ、そうでない高校――先ほどから検証しているように平日の家庭学習時間が激減しているような中間レベル以下の高校――は、もう少し工夫をしていく必要があるのではないかと思います。もっとたくさん憶えさせればいい、というわけではなく、学び方をしっかりと身に付けるような学ばせ方をやっておかないと、その後の活用があまりできないのではないかと考えるわけです。これが1つめに言いたいことであり、すなわち、学び習慣がしっかり身に付くような高校教育を考えてほしい、ということです。

つぎに2つめの話です。ここで少し懺悔をしなければいけませんね。それは、「学歴社会論」とか「格差社会論」とかで、学歴が重要だと言い続けていた教育社会学者が、実は大事なことを隠してきたのかもしれないということです。

それは何かというと、実は、学歴で決まる部分は大きくないのかもしれない、ということです。日本での学歴社会論というのは、1970年代から80年代にかけて、教育社会学者が盛んに論じてきた主題で、わたしも『学歴主義の社会史』という本を仲間と一緒に書きました。しかしながら、教育を考察する際に、「学歴による差異」という視点を少し重視しすぎていたかもしれないな、と最近反省しています。それは何かというと、「学歴が重視されている」という論の背景に、学歴と所得・地位との関係は測りやすいけれども、一般的な知的な力――「学力や能力」と呼んでおきますが――と所得・地位との関係は測りにくいということがあるんですね。ただし、「学力や能力」という語では誤解を与えかねないんで、ちょっと補足が必要ですね。ここで「学力」というのは、些末な事項を覚えているかどうかではなくて、基本的な原理や認識が身についていることをイメージしています。現実の政治を見るときに「三権分立」の原理と仕組みが理解できているとか、環境問題のニュースが理解できるぐらいの化学や生物の知識とか、そんな感じのことをイメージしています。「能力」という言葉もちょっと危なくて、「生まれつきの特性」のようなものを連想させると困るのですが、むしろ後天的に経験と学習の中で培われる、知的操作に関わるものをイメージしています。たとえば、論理的な思考ができるとか、まだ起きていないことをシミュレーションして描くことができるとか、失敗から学ぶことができる、とかといった感じですかね。

東大を出るとこれぐらい有利だとか、入社後の昇進競争に東大卒や京大卒がどれくらい有利なのか、といった話はたくさん研究や議論がなされてきました。けれども、本当にその「学歴」で決まっているのか、と思うわけです。社会調査なんかでは測りにくい「学力や能力」の違いが本当は影響しているのではないか。「学歴」による差とみえたものの多くは、実はもっと学んだものの中身に関わる差の問題ではないか。実はこういった議論は誰もしてこなかったんですね。

 それは、成人の「学力」とか「能力」とかといったものは測りにくいので、どうしても学歴を注目する手がかりとして、データを解釈してしまう。そうすると、最終卒業時の学歴がまるでその後の人生のたくさんのことを決めているかのような議論になってしまう。これは、教育社会学者の間違いかもしれないと思ったりもしているわけです。

 実際、エスピン・アンデルセンはこんなことを言っています。「国際的なデータでは学歴と所得の関係は思いのほか小さい。学歴は所得のバラツキの5分の1を説明するけれど、認知能力は教育の収益性の3分の1を説明する」。ここで「認知能力」というのが具体的になんなのかは、元の実証研究までさかのぼって確認してみないとよくわかりませんが、少なくとも、学歴がもつ影響力を、資格の有無による効果と学力・能力による効果とに分けてみる意義があることを、この議論は示してくれています。おそらく、「学歴」が選抜とかで有利に働いて地位や所得を決める部分と、「学力・能力」が仕事の達成に効果的に働いて、地位や所得を決める部分とがあるのだと思います。しかしながら、一般の会社の昇進なんかを分析するデータでは、「学歴」しかないんですよ。このデータを教育社会学者はいじって、東大や京大はどの程度有利かなんて話はしてきたんですが、「学力・能力」の部分は全部欠落してしまっているんです。

 実は、「学歴」の効果と見えたものは、学習して身についた知識や知的スキルの成果なのかもしれない。このように考えてみたらどうでしょうか。わたしたちも、これから研究していかなければならないテーマです。少なくとも「学歴」で多くのことが決まってしまっているというのは、学歴データがいじりやすいから誇張されてきた結果だと考えられます。「イデオロギーとしての学歴論」ではないか、と最近反省的に考え直しているところです。

 そうすると、「学歴」と「学力・能力」を区別しなければならない。だから、皆さんは、高校教育のゴールは、「学歴」を付けさせることなのか「学力」を付けさせることなのか、といったことを考えていただければ、と思います。

さらにこういうことも考えられます。それは、「学力」と「学ぶ力」も区別していく必要性です。学校を卒業した後に、人は誰も新しいことを学んでいく。18歳までに学ぶ知識はたかだか限られている。変化する社会、次々と新しい事態に直面する個人の経験の中で、人は18歳までに学んだ知識だけで生きていくわけではない。だから、誰もが多かれ少なかれ、学び続けることになる。でも、そこには、「君にはこれが必要だ」とプリントを作ってくれる先生はいないのです。自分で学ぶしかない。「自分で学ぶ」という学びを経験していない者は、その時点になって苦労することになります。

 

〔4〕「学び方を学ぶ」ために

 先ほど東大と日大の学生の話をしましたけれども、日大生は学び方を知らないですね。数年前に日大に赴任してびっくりしたことがあります。ある日大生がこう言うんですね、「ぼくはまじめな学生です。先生たちが黒板に書いたことは、4年間、全部写してきています」(笑)。受け身の学びしか経験してきていないから、そうなるんですね。

それで、この頃では、わたしは1年生にこう言っています。大事なことを黒板に書いてくれる世界は異常だ。小学校から高校まで、先生が大事なことを黒板に書いてくれる。だけども、社会ではそんな世界はないぞ。取引先の企業に行って交渉する時に、相手側からポイントを書いてくれるか?そんな訳がないぞ。だから、社会で通用するのは、他人がしゃべることを耳で聞いて理解すること。ポイントを聞き取って、メモにとること。親切にポイントを黒板に書いてくれるような世界は一般社会にはないぞ、と。そう言わないと、わたしが黒板に何かを書かないうちは、日大に入ったばかりの新入生はポカンとしてただ聞いているんですよ。先生が書いてくれない、ってね。早く書いてくれないかな〜、みたいな顔してますよ。(笑)

 それで1年生の最初の授業でやっているのは、20分ぐらいかけて私がある主題について話をし、学生に要点を聞き取らせてメモさせる訓練です。お互いにメモを見せ合わせて、適切な聞きとり方やメモのテクニックなんかを議論させます。効果は絶大です。・・・だけども、これを大学でやるのではダメなんですよ。なぜならば、大学に進学しなかった国民の人口の半分は、そういうスキルが身に付かないままだ、ということになるからです。だからこそ高校でやってほしい。人の話を聞いて要点を聞き取る、そしてそれをメモに取ったりできるようにしてほしいです。

 つぎに、自分の頭で考える、という話をします。先ほど辻会長が、市民を育成するという話をされていましたが、考えさせる、これもまた難しいことなんですよ。意見をまとめるという作業は、日大クラスの大学でやると、「賛成です」、「おかしいと思います」程度で終わり。それ以上の言葉を準備していない。そこで、わたしもこの頃は反省して、まずは小さな紙を学生に配って5分程度の猶予を与えて、自分の意見をまとめて文字に書かせるようにしました。それからそれぞれのグループで自分の意見を言えと指示すると、結構しっかりした意見が出てきますね。自分の意見を書かせたあと、「さらにそれの論拠を考えて書け」という指示を出して、その作業をさせてから意見を表明させる、というやり方もしています。

 日大生は平凡な日本の若者の代表かもしれません。その彼らは、自分でいろいろ考えて、それを言葉にしてまとめるということができていない。高校を卒業して大学に進学しなかった若者たちは大丈夫でしょうか。高校を卒業して地元に就職する人が、まず地域の問題を考えよう、ということをやらなければならない時代になってきているわけですからね。大学を卒業した人たちだけが、自分の考えをまとめて表現できる社会ではダメなんですよ。高校を卒業した人たちが、自分の考えをまとめて表現できるようになっていなければならないのです。

 もう一つのお話です。正答の無い問いに取り組むこと、これも今までの高校での学びでは手薄だったと思います。これも大学生によく言ってるんですが、「小学校以来のテスト経験のせいで、君たちは間違ったことを学んできている。それは、問いには必ず正しい答えが一つある、ということである。しかし、世の中の問題はそんなものではないぞ」と。正しい答えは一つとは限らないし、正答がないかもしれない。あるいは、「問い」自体がまちがっているかもしれない。

 ここで例示をしてみましょう。これは大学2年生の授業で説明のついでに出す問題です。「問Xに対して、方法Aがよいか方法Bがよいか」という問いがあったとき、これに対する答えは何通りかという問題です。いくつかの選択肢の選び方が出てきますよね、「方法Aがよい」・「方法Bはよい」・「AもBも」・「どちらでもない」。・・・答えは「4通り」ですかね。

 いや、まだありますよ「方法C」という選択肢に無い答えが最善だとする答えですね。「方法D」かもしれない。「方法E」「方法F」・・・。ここまでくると、この問いへの答えは無限にありうることがわかってきます。

また、条件を付ける答えもありますよね、「もしもXがp≧0だったらA」で「p<0だったらB」というように。この条件次第というときにpもqもrも・・・・・・といくらでもありうるから、ここでもまた答え方は無限にありうるんですね。

あるいは、「問Xが存在しない」(まちがった問題)ということもありますね。たとえば、「火星人が好きなのはパンかうどんか?」という問いです。現実にも、「青少年の非行の凶悪化にどう対応すべきか」なんて問いをみかけますが、ちゃんと調べると、そもそも青少年の非行の凶悪化という現象そのものが存在しない、そもそもの問いが間違っている、というケースもあるわけです。

さらには、その問いそのものを解こうとすること自体が社会的に見て不適切ではないか?といったこともあり得ます。「100万人を一瞬で殺戮する機械を発明するには方法Aがよいか、Bがよいか?」。私の答えは、「そんなものを発明しようとするな!」です。

このように解答の仕方はたくさんあるわけです。学生によく言うのは、「与えられた問いに対して与えられた答え方をすることは高校まではやってきたかも知れないけれども、それじゃ、自分の頭でものを考えられないよ」、と。問い自体を疑ったり、想定されているものとはちがう答えを作り出していったりすることこそが必要だ、ということです。

たしかに、これはレベルが高いですよ。人の話を耳で聞いてメモをとる、ということよりは高度ですね。でも、高校生までの間に、与えられた答えの中から正解を探すといったこととは異なる経験をさせることも重要だと思います。高校生に対して、考えさせる授業をする際、しばしば正しい答えを導かせるために「考えさせる」ケースが見られますが、それではダメですね。巧妙な誘導にすぎません。高校生が自由な発想でいろんな答えを見つけ出すことの妨げになっていると思います。本当にエキサイティングな授業とは、想定された問いの外側に子供たちが目を向けたり気が付いたりする、そんな経験をさせることができる授業ではないかと思います。これがものの見方を拡げたり、考え方を自分なりに創り出していくことに繋がるんだと思います。学び方を学んでいない今どきの学部生を見ているとこんなことを考えています。

さて、それでは「学び方を学ぶ」ためには、どういう方法をやればよいでしょうか。これには、「正しい答え」が一つあるわけではありません(笑)。むしろ、ぜひ高校の先生方ご自身で考えていただきたいし、ご自分であれこれ工夫していただきたいと思います。ただ、私なりに考えていることを二つお話しします。

第一に、内容やレベルは生徒に合わせればよい、と思います。「聞いたこともない単語を組み合わせて自分の考えをまとめる」というのは無理です。教科の内容を全部覚えさせた上で、さて、それでは応用としてそれらを使ってみましょう、というのもダメだと思います。そうではなくて、具体的な知識を学ぶプロセスの中に、考えるとか自分の考えを言葉にしてみる、といったことが入っていけば、どういうレベルの生徒でもやれることはあると思います。

考えてみれば、自分なりに工夫しながら学ぶ、考えながら学ぶ、議論しながら学ぶ、情報を探しながら学ぶ、経験しながら学ぶ、など学び方にはたくさんあります。教科書があって教師がそれを板書しながら説明し、プリントがあってその中の課題をやること(だけ)が学びであると考えるのは異常な世界です。実社会では、経験しながら学ぶことや自分で情報を探しながら学ぶことがむしろ当たり前なんですよ。当たり前のことをやらなくて、黒板に書かれたものを写して学ぶ、プリントの穴を埋めて学ぶ、など極めて例外的な学習の様式ばかり重ねているのが高校の教育のような気がします。もっと日常的にいろいろ遭遇する場面で学ぶことがあるのだから、上述したような様々な学び方のスキルを身に付けさせてほしいと思います。その際、内容やレベルは生徒に合わせていけばよいのです。

余談ですが、高校は、実は生徒個人を無能化してきたかもしれません。与えられた課題の決められた解き方を身に付ける、それ以外のことは生徒は分からない。問われたものに正答を答えるために学ぶ。だから、様々な学び方を知らないまま18歳になってしまう。ですから、全ての高校生に「学び方を学ばせる」ことが必要だと思います。

第二に、学び方を身に付けた者は、その後何にでも応用可能だということです。学び方をしっかり身に付けておけば、仕事にも役立つし市民生活にも役立つなど柔軟な社会の変化の中でやっていくための多様な場面や場所で役立つだろう、というふうに思うわけですね。

この点をあえて強調するのは、最近の教育をめぐる議論は、「仕事にありつくため」という色が強すぎると思うからです。生徒たちは世界が狭いから「よい仕事のために勉強しよう」と思うのは無理がありません。でも、教える側が「よい仕事につけさせるため」と思って教えていたら、エキサイティングな教育はできません。

わたしの知り合いの本田由紀(東京大学)さんなどは、職業的なレリバンスを高めるべしと主張されていますが、わたしはむしろ、職業であれ市民的な能力であれ一般的な学び方や知的な能力・スキルみたいなものを重視するのが大事なんじゃないかと思っています。特定の仕事の中身を教え込んでも、労働市場は限りがあるので、しばしば就職するチャンスは増えなかったりする。せっかく資格などを取得しても、関係ない仕事に就いたりしないといけなかったりする。だから、多くの高校生に重要なことは、基本的な一般的知識と、そして今日お話しした「学び方」の習得なのではないかと思うのです。

たとえば、村おこしで新しいアイデアを考えて実行していくとか、新しいアイデアでインターネットを使って世界中と商売するとか、他の地域に流出して何か新しい仕事で生きていく、地域の問題や国レベル・グローバルなレベルの問題に市民として関わるなど、いろんな生き方を思い浮かべてください。それらは、それぞれ、必要な知識の内容は異なっていますが、自律的な「学び方」を知っていて実践できれば、なんとかうまくやっていくことができます。

 最初のあたりで話した内容とだんだん繋がってきましたね。これからの社会がどうなるかは流動的だけれども、みんな何らかの形で学び続けていかなければならないのですよ。職業人として学ぶか、市民として学ぶか、などいろんな側面はあるのだから、自分で学べるという自律的な学び方を身に付けて高校を卒業してもらうことこそが大事なわけです。知識の内容の最低水準に関していえば、高校では、中学校レベルの基礎知識をしっかり身に付けさせてそれを活用できるようになれば充分だと思います。それぐらいまではどの生徒にも身につけてほしい。ただそれだけではなくて、基礎的な自律的な学び方を学ぶ機会として高校教育が役に立ってほしいと考えています。教科や科目は、内容自体も大事ですが、「学び方」を身につける過程で扱われる具体的素材だ、というふうに考えてもよいのかもしれません。

 

〔5〕おわりに

 去年の本シンポジウムの講演で、高校生を大人にしていく高校教育が必要だという話をわたしはしました。そこでは、政治的な認識とか関わりみたいな部分を中心に話しましたけれども、一段抽象度を上げて考えてみれば、今日のような内容になりました。くりかえしますが、自分でものを考えて自分で学びたいものを学ぶ基本的なスキルを身に付けていくことが、高校教育に求められている。そうしないと国民の半分は学び続けられない人になってしまう。自分で学び、自分の頭で物事を考える人たちを「大衆」ではなく「市民」と呼ぶならば、高校教育は「市民」を作る教育であってほしい、と思うわけです。

最後に話をまとめます。最初は社会の変化の話をしました。少なくとも高度成長期までつくられた社会の仕組みみが行き詰まって見直しが迫られているという話をしました。それは、労働の場面でも変化しているけれども、高校教育の位置付けも変化してきている。高校卒業後は、それなりのところに進学させておけば、みんな人生何とかなるだろうと言っていた時代はもう終わりで、すなわち学歴の保証ではなくて、一人一人の生徒にどのような学力を身に付けさせて卒業させるのか、といったことを考えていかなければならない時代になってきている。その時は、知識の内容とは別に学び方をちゃんと身に付ける、その後の人生のいろんな機会に自分で学ぶことできるようになることが、高校教育でやっていただきたいことです。

 以上でわたしの話を終わります。

 

  

 

平成23年度夏期シンポジウム報告

 ◇シンポジウムテーマ:教育環境を踏まえた学校経営の在り方
             −学校経営を支える教育的な視点−

  開講式あいさつ (辻 敏裕 高経研会長)

 おはようございます。平成23年度の高経研夏期シンポジウムに全道からこのようにたくさんお集まり頂きありがとうございます。 今年は北海道教員採用試験の第二次検査が8月上旬実施ということもあり、例年よりも一週間ほど早いシンポジウムの開催ということになりました。夏休みに入って約一週間、各種研修会や講習等でお忙しい中、皆様にこのように夏期シンポジウムにお集まりいただきましたことは本道の高等学校教育の改善充実に熱い情熱と強い意志をお持ちの先生方が多数いらっしゃることに心強さを感じるとともに明るい希望を見いだしているところでございます。 

 さて平成23年度については、先の3・11大震災を抜きには語れないと思います。未だ行方不明の方が大勢いらっしゃることに大変心を痛めておりますが、犠牲になられた方々のご冥福をお祈りするとともに、被災に遭われた方々と被災地の一日も早い復旧・復興を願わずにはいられません。

 この3・11の大震災ですが、これは我が国にとって大きなターニングポイントであると考えております。特に宮城県・岩手県・福島県の被害が甚大でありましたが、そんな中岩手県の釜石市内の児童生徒はほぼ全員が避難することができたことから、"釜石の奇跡"と呼ばれております。釜石市立鵜住居小学校と釜石市立釜石東中学校の避難の様子は写真の記録とともに広く報道され多くの人々の感動をよんでいるところでありますが、これは釜石市を挙げての防災教育の賜物だと言われております。

 釜石市教委は群馬大学大学院災害社会工学研究室の片田敏孝教授と連携して防災教育に取り組んでいたそうですが、次の三点を徹底して子どもたちに教えていたそうです。一つは「想定にとらわれない」、二つ目は「状況下において最善を尽くす」、三点目は「率先避難者になる」であり、これは"避難三原則"と呼ばれておりました。今回はそれが生かされて間一髪小学生全員が津波に巻き込まれずに済んだわけですが、何かと形式にとらわれることの多いいわゆる防災マニュアルがありますけれども、それらとは違う危機管理・防災教育の在り方を考える上で貴重な事例ではないかと考えております。

 話は横にそれますが、今何か事がある度にマニュアルを作るよう指示が来ますが、こうしたマニュアルの内容はかなり形式的なものであまり現実的でない側面があるのではないかと思っております。マニュアルを整備しておけば危機管理体制が整っていると勘違いしているような気がしてなりません。じつはマニュアルの整備とは、責任回避あるいは責任の所在を曖昧にすることを目的に作っているような気さえしております。この釜石の避難三原則にあるとおり「命を守る」ことが第一であってそのために何を為すべきかを考えていくことにポイントがあると思います。一般的なマニュアルによくあるような「集団で秩序を保って指示に従って行動しなさい」とか「事前に想定されているように行動する」等の表現では"釜石の奇跡"も生まれず悲惨な結果になっていたのではないかと思います。

 実際、釜石市立鵜住居小学校では当初全校児童が津波来襲時の避難場所である校舎の3階の屋上に避難したそうですが、隣接する釜石市立東中学校の生徒がグラウンドに避難してくるのを見ていた児童たちが自主的にグラウンドへ避難場所を変えていったそうです。これは避難三原則の一つである「想定にとらわれない」ことが生かされた証左であり、この後中学生と小学生は手を取り合って高台にある避難指定場所のグループホームを目指して避難をしたそうです。その直後校舎が津波に呑みこまれたのは説明するまでもありません。そればかりか、そのグループホームへ到着後裏山が崩れるのを目撃した子どもたちはさらに高台にある避難指定場所の介護福祉施設への避難を再び自主的に開始しました。避難を始めて30秒後にはそのグループホームも津波に流されたそうです。これなどは「状況下で最善を尽くす」「率先避難者になれ」といった避難三原則が生きたマニュアルだったというよい教訓であると考えます。

 

  話を元に戻します。

 この震災に係わり福島第一原発事故が大きな問題となっております。この事故は世界各国の原子力政策の在り方をも左右する大きな問題となっております。原発は安全であるといった科学的根拠が迷信ということになり、結果として不信感と不安感だけが残されました。特に事故当初、会社や事故対策の担当者から想定外との言葉が随分聞かれましたが、万全な備えを行うための科学的な検証においては想定外という言葉はあり得るべからずであります。さらに避難対策あるいは復旧復興支援を巡る政府の迷走や関連する政局の混乱は、これまで胸を張ってきた我が国の安心安全社会という信頼を根底から覆すとともに明るい希望に満ちた未来社会がもろくも崩れさってしまった感があります。

 我が国における信頼社会の再構築がいま最大の課題となっておりますが、それを成し遂げる拠り所は教育に待つほかないのではないかと考えております。この信頼社会では正確な情報がすべてオープンになることが大前提だと考えます。

 そしてその情報を批判的な思考力で分析・判断そして行動に結びつけることを通じて民主主義の担い手としての市民性を身に付け政治に積極的に参加する意識を育てていく教育が大切になってくると考えております。本日のシンポジウムではこれらの点を柱に協議を進めていきたいと考えております。そのためには教育の現状を正しく把握しその方向性をしっかりと見極めながら高校教育の役割を確立することが必要になると思います。

 さて、現在我が国におきましては様々な教育改革が進められていますが、これは昭和60年に設置された臨教審の答申からの流れになります。正確には46答申からのスタートになりますが、臨教審では「個性重視」「生涯学習体系への移行」「変化への対応−情報化国際化等への対応」というものを教育改革の視点として打ち出しており、総合学科や中高一貫校といった新しいタイプの高校が提言されたのもこの時でありました。またいわゆるゆとり教育と教育の多様化が打ち出され、その後新自由主義的な手法や制度の導入と相まってPDCAサイクルに基づく学校経営が求められ学校職員の評価制度の実施や勤勉手当に係る取り扱い、あるいは道立学校運営支援室や教職員事務センター等の開設といった事務改善へと繋がっていっております。

 今年はこれらの一連の教育改革を立ち止まって俯瞰するとともに今後の社会の有り様を考え改めてこれからの教育の在り方ついて見直すべき時期ではないかと思っております。個人的には「ポスト3.11」は、これからのキーワードになるのではないかと考えております。

 そこで今回の高経研の夏期シンポジウムの講師といたしまして日本大学の広田照幸教授をお招きし、先生の著書であります「格差・秩序不安と教育」をテキストに読み解き、これまでの教育改革の流れと背景を紐解きつつ今後の高等学校の役割について考えそれぞれの学校の教育環境を適切に踏まえた学校経営の在り方について認識を深めたいと考えております。なお広田先生との連絡につきましては本日もお越しいただいております学事出版の花岡副社長にたいへんお世話になりました。この場を借りて御礼を申し上げます。

 

 本日のシンポジウムは私たち高経研が実践しております身近な教育改革に大きな示唆を与えてくれるものと確信しております。皆様方の積極的なご参加をお願いいたしまして開講のごあいさつとさせていただきます。本日はどうぞよろしくお願いいたします。





 基調講演 (広田 照幸 日本大学文理学部教授)
  ◇演題:ポスト高度経済成長期における高等学校の役割を考える

   〔高経研冬期フォーラム「研究紀要」掲載 (H24.1.9発行)〕

                  

 〔1〕はじめに 

  皆さんこんにちは、広田でございます。 

  今、会長からご紹介があったように昔は歴史研究をずっとやっておりまして、陸軍将校の養成の教育ですとか、明治維新後の士族の子弟がどのように学校へ行ったかなどを研究しておりました。また学歴主義や躾の歴史を調べたりしておりました。地味な歴史研究者だったんですね。

  1990年代のある時期から現代の問題をやるようになって、現代の教育問題だとか教育改革とかについて考察するようになりました。さらには、グローバリゼーションとか、未来世代への責任とかを論じるようになり、だんだんと未来の教育をどうデザインするかといった話をするようになってきたわけです。過去から未来へと主題がシフトしてきているのですが、ただ研究の視点は一貫しております。それは大きな社会の変化の中で、学校教育は何をしてきたのか、また何をしていくのかということです。ですから明治維新を挟んだ大きな社会の変化の中で学校教育は何を果たしてきたのか、戦争に向けての時代の変化の中で教育は何をしてきたのか、現代であれば、高度成長に向けての変化の中で家庭の教育はどのように変わってきたのか、またグローバリゼーションが進む中で学校教育は何を考えるのかなど、自分では研究のテーマは一貫しているつもりです。

  さて本日の講演の要旨は、日本社会のポスト高度経済成長の時代を考えると高校教育は、生徒たちに大人になってもらうことを考えなければいけない時代になっているのではないか、ということになります。すなわち戦後は高校生を社会から隔離して、ある意味特別な状況に置いて大学受験に打ち込ませるような高校教育を何十年も続けてきたが、今一度高校生がいろんなことに「気がついたり」・「考えたり」・「やってみたり」しながら大人になっていくような教育をしなければならない、ということをお話ししたいと思います。

 

  〔2〕何のための高校教育? 

 (1)教育の目的・目標について――なぜそれぞれの教科を学ばせるのか?

  そもそも何のための高校教育かを考えてみます。まず資料の9ページをご覧ください。そこには教育基本法と学校教育法について、それぞれの教育理念や高等学校の目的・目標が掲載されております。私は初めて学校教育法の51条を読んだとき大変感動しました。たとえば条文第一項「・・・、国家及び社会の形成者として必要な資質を養うこと。」の中の"社会の形成者"の件ですとか、条文第三項の「・・・、社会について、広く深い理解と健全な批判力を養い、・・・」の中の"批判力を養い"などの件にです。深く首肯できるんですね。このような法律の条文はタテマエじゃないかといえばそれまでです。「そうはいっても就職や受験の圧力があるんだからそのための勉強をしなきゃならないんだ」とかね。でも、そういう高校現場のホンネばかりで押し通せばみんなが幸せになる社会になるのでしょうか。そうはならないのがポスト高度成長期の時代ではないでしょうか。たとえば進学と就職のための競争をしても誰もが勝てる社会の状況ではないし、みんなに平等のチャンスがあるわけでもない。現在は誰かが勝てば誰かが負けたり排除されたりする時代ですよね、そうだとすると今までとは違うことを高校教育では考えていかなければならない。 

  理想に向けて努力するとか、理想に近づこうとする努力なしには、ニヒリズム(無定見・無節操主義)やシニシズム(冷笑主義)の教育になってしまいます。ニヒリズムやシニシズムに陥らないで教育のこれからを考えていこうとするときの一つの出発点が、法律にあるような教育の理念や目的だと思うのですね。それをもう一度捉え直してみる必要があると思うのです。

    

 (2)教育目標の二重性について

 とりあえず、少し教育学者らしい話をします。

 ドイツの教育学者ブレツィンカが『教育科学の基礎概念』(黎明書房)の中で、「教育目標の二重性」について説明しています。それは、教育を受ける者はこうあるべきだという理想としての教育目標《生徒は〜であるべし》と教育者が実際に教育するために課題とされる教育目標《教師の〜なすべし》についてです。この二つの教育目標は違う、ということをまず私たちは理解しておく必要があります。後者は、十分に達成されることが可能ですが、前者が達成されるかどうかは不確定であり、しばしば達成され得ないレベルに目標が設定されるのです。 

  たとえばいじめを取り上げますと、「いじめをなくす」という教育目標を設定し教師は様々にいじめをなくす努力をしていくわけですが、だからといって生徒たちの中でいじめが全くなくなることはないのが実情でしょう。このように《教師の〜なすべし》は、目標に立てて実現することはできる(いじめをなくす指導を計画通り十分やった)けれども、《生徒は〜であるべし》はできるかどうかわからない。生徒の間でいじめがなくなることが実現するかどうかは定かではない。――これが教育なんです。

  「すべての生徒にXを理解させたい」と教師は努力することはできる。「すべての生徒にXを理解させる」という目標に向かって、教師は最善の努力をなすことはできます。しかし、「すべての生徒がXを理解した」という最善の結果が得られるわけはない。《生徒は〜であるべし》という目標は、実現不可能な高いレベルに設定されているのが普通だからです。世の中には「学校は「○○をやる」と言いながら指導しているのに、子どもたちはそのように育っていないじゃないか」などと学校を責める人がいますが、そういう人たちは、教育目標の二重性がわかっていない。また、教える側の学校内部にも「どうせ実現できない目標だから=タテマエだから」と、《教師の〜なすべし》自体をあきらめる人がいたりします。これも目標の二重性をわかっていない。

  学校教育法に掲げられた目標は、確かにタテマエなのかもしれません。しかし、ただのタテマエだと割り切ってしまうと物事は先に進まない。高い理想を見失ったニヒリズムやシニシズムに陥ってしまいます。「その理念に向かって動き出せば何がしかまではできるかもしれない」と考えれば、新しい一歩が踏み出せるのではないかと思うのです。教える側の最善の努力までは、やればできる。ですからもう一度教育基本法や学校教育法に謳ってある高邁な理念や目標を大事にしてみませんか、というのがここでお話ししたいことの基礎の部分になります。

 

 (3)学校教育の疎遠さと可能性についてもう一つ、興味深い教育学者の議論をご紹介します。研究紀要の基調講演資料2ページに図がありますね。これはK.モレンハウアーが『忘れられた連関』(みずず書房)という本の中で論じていることを私が少しアレンジして、図に表してみたものです。 〔注)図省略・・・Pdf版参照〕

 学校は中心にある四角です。学校が提供するのは、「カリキュラム化された知(世界の再構成と縮尺)」です。「代理的提示」(Repr?sentation)〔訳書では「代表的提示」〕と彼は呼んでおります。

 学校がない時代は右側の状況ですね。「日常の生活世界」です。そこでは、生活の中で必要な知識や技能が学ばれていました。だから、「生活=学習」です。これは江戸時代を考えてみると分かりやすいですね。江戸時代の子どもたちは親と一緒に野良仕事をやりますが、野良仕事をやっているといつの間にか作物の育て方を理解していく。日常の生活がそのまま学習であるような世界、これをモレンハウアーは「提示」(Pr?sentation)と呼んでいます。この時代には学校はいらなかった。

 ところが、近代になってくると「代理的提示」の学びが中心となってきます。近代の学校の始まりです。子どもたちは、日常生活にないもの、日常世界の外側にあるものを、学校で学ぶことになります。すなわち近代の学校とは私たちが住むこの大きな世界をパッケージ化して子どもたちに学習させる場なのです。たとえば、地理や世界史、物理、あるいは外国語を学ぶということは、いわば再構成され縮尺された世界を学ぶということになるのです。子どもたちは学校という場で世界を経験していき、その経験を基に図の左側にある職業Aや職業Bといった職業社会や市民生活の世界へと出ていくことになります。また職業ばかりでなく公的生活についての知識やノウハウを学校で学んでいくことにもなります。たとえば高度な言葉や歴史や科学を学ぶことで市民社会の一員としての要件を獲得していくわけです。これらは日常の生活では学べないことばかりですね。教室の中で世界が縮尺されカリキュラム化されてそれを学ぶことで子どもたちは世界を認識していく。このようにパッケージ化された知識を習得する、これが近代の学校の役割なんです。生まれ育った身近な生活世界とは違う広い世界へ、学校を通して踏み出していくことができるようになるのだということです。

 しかしながら、ここで問題が生じます。それは「代理的提示」でのパッケージ化された知は、子どもたちにとって疎遠な内容であるということです。日常生活にないものを学校で学ぶのだから、疎遠な内容であることは、ある意味必然です。だが、ここに大きな困難がある。勉強する気がしない、勉強する意義がみえなくなりがちだ、ということです。

 この疎遠なものを学習させるためにいろいろな戦略があります。これについては『ヒューマニティーズ 教育学』(岩波書店)の中で書きました。ヨーロッパ近代初期の時代には、勉強させる最初の戦略は体罰でありました。15世紀あたりはそれしかありませんでした。子どもたちにとって疎遠なラテン語を習得させるために、鞭を使って勉強させていたわけです。16世紀半ばになりますとイエズス会などが競争というテクニックを用いはじめました。グループをいくつか作って競わせるんです。そうすると子どもたちはがんばるんですね。この手法は今でも使ってますね。

 現代の学校では、体罰や競争などとは異なるやり方で、教育内容の疎遠さによる困難を何とかしようとしています。子どもたちに自発的に学ばせるための工夫や仕掛けがある、ということです。

 たとえば、「(勉強の意義は)今にわかる」とか「受験のためだ」と言って、余計なことを考えさせないでがんばらせる方法も使われていますね。学んでおけばいつかは役に立つから今は何も考えるな、あるいは、しばらく先に受験というゴールがあるのだからそれに向けて集中せよ、といって勉強させようとするわけです。これをあとで問題にします。

 もっと別の方法もあります。それは子どもたちの日常の生活(図の右側)と関連付けて学ばせる手法です。たとえば経験学習なんかがそうですね。たとえば、「自分の町を探検してみよう」―警察署がありました、郵便局がありました、市役所がありました―などの発見から、社会の仕組みを理解させていく学習方法ですね。子どもたちの実体験に知識を関連付けて習得させていくわけです。子どもにとっての疎遠さを何とか克服しようとする試みですね。

 さらに別の方法では、図の左側にある将来の自分の職業を意識させて勉強させるというのも一般的ですね。希望する職業に就くためにどのような資格や学歴が必要なのかを意識させてそれに向けて努力させる、キャリア教育の考え方がこれの例です。あるいは現実の広い世界を理解することの知的な楽しさや学びがいなどを味わわせること――総合学習の時間が目指していたものがこれに当てはまります――もできます。グローバルな環境問題についての学習なんかはこれですね。普段学習している知識の延長上にグローバルな環境問題を位置づけて考えさせる。このことが理解できると、今学んでいることは断片的だけれども、それらを蓄積して組み合わせていくと未来の様々な課題解決に役立つんだ、ということが分かる。それが個々の科目を学ぶことの動機付けになる。

 今述べたように、学校というのは、もともと、日常にはない疎遠なものを子どもたちに学習させる装置としてあったし、今でもそうです。そこで、子どもたちに自発的な学習をあさるためのいろいろな戦略があみ出されてきました。

 

  〔3〕「今にわかる」「受験のため」を越える

 (1)「今にわかる」「受験のため」でやってきた日本の高校

 この観点からみると、日本の高校は、長らく、「今に分かる」とか「受験のため」といった説明で生徒たちに勉強をさせるという、先延ばし戦術がもっぱらつかわれてきました。私には、現代ではそれが大きな問題をはらんでしまっているように思われてなりません。この問題を次に考えてみることにしましょう。 

  戦後、ある時期から、日本の高校では、「余計なことを考えるな。勉強だけやっていればいい」というふうな指導の文化が支配的になってきたように思います。「何のための勉強か」という疑問に対しては、「(勉強の意義は)今にわかる」とか「受験のためだ」と説明して、視野を狭くする形で勉強に専念させる、というやり方です。いわば、荷馬車を引く、目かくしをされた馬のような状態に、生徒たちを置いてきたと言ってもいいですね。 

  ここには、次の3つのことが関わっています。 

 第一に、高校生が現実の社会の問題を考えたり、それに関わったりすることを、日本では抑え込んできました。「高校生を現実社会に触れさせない」ベクトルが働いていた、ということです。

 1960年には、高校の生徒会が学校外の問題を扱うことを不適切とみなす文部事務次官通達が出されました。さらに、学園紛争が激化した1969年には、高校生が個人として政治的な活動に関わることを望ましくないとみなす文部省初等中等局長通知が出されました。そこでは、放課後や休日に学校外で生徒が個人で関わる政治的活動も、「学校が教育上の観点から望ましくないとして生徒を指導することは当然である」とされたのです(鈴木・平原編『資料 教育基本法50年史』)。 

 冷戦と学園紛争の時代の影響を受けた動きで、当時としてはやむをえない部分があったのかもしれません。しかし、結果的には、高校生までは現実の政治に触れさせないような高校の姿を一般化させてしまいました。その後の高校生は、せいぜい、若者文化の消費者として社会との接点を持つけれど、現実の政治や社会問題などとの接点を持たないまま10代の後半を過ごすような生き方が広がったわけです。現代の若者の政治離れとか私生活主義が問題にされますが、これは大人が意図的に作り出した結果だと思います。私はこれを「高校生のコドモ化」と呼んでいます(「「コドモを市民に育てるには」『アステイオン』第72号、2010年)。 

 第二に、長い間受験競争が厳しかったことも、「今に分かる」とか「受験のため」といった説明で生徒たちに勉強をさせるというやり方を支えてきました。90年代の初めまでは受験競争が激しかったので、高校はそれに対応しなければならないという社会的要請があったわけです。それぞれの高校の評判は、もっぱら受験の実績によって左右されていました。「興味深い教育実践をやっている」とか「面白い子どもたちが育っている」などというのではなく、「国立大学に何人進学させた」などといった基準が重視されてきたのですね(それは今も基本的にはそのままでしょう)。

 ちょっと脱線しますけれど、本当は、高校で学んだものは、大学で特定の専門を学ぶ上で役に立つものが多いんです。たとえば、高校の数学は、理系だけでなく文系でも大学のそれぞれの分野のアプローチの基礎となっている部分が大きくなっています(広田・川西編『こんなに役立つ数学入門―高校数学で解く社会問題―』ちくま新書)。また、特定の専門に限らず、大学で「教養教育」として与えられるものをしっかりと受けとめるには、高校の時のさまざまな科目が基礎として必要です。 

 私のいる大学での教育学の学習を例に取りましょう。学生たちにちゃんと教育学を学ばせようとすると、高校のいろんな科目がきちんと修得されている必要があります。どんなことを深めようとしても文章をきちんと読めて書けること、つまり現代国語の力は当然必要だし、教育思想を理解させるためには、日本史や世界史の知識がないと困ります。教育史を深めたい学生には古文や漢文の学習が役立つ。教育行財政の仕組みを理解するためには「政治・経済」で出てきた知識が活用されるし、比較教育学を学ぶときには「地理」が役に立つ。英語圏に留学したり、英語文献を読んで卒業論文を書く学生もいないわけではありません。教育心理学を本当にちゃんと理解するためには数学が必要です。教員採用試験のための試験対策で学ぶのなら薄っぺらい暗記でやれる部分もありますが、本当にきちんと教育学を多面的に理解するためには、高校までの教育がしっかりと身についておくことが必要なのです。 

 私のいる大学のレベルでは、数学や外国語を使いこなして卒業論文を書いたりする学生は残念ながらごくわずかです。でも、何かを知りたい、考えたいと深めていこうとした時に、多かれ少なかれ、高校までに学習した内容が学生たちの「知の足場」になっていることは確かです。だから、高校までの学習は、「大学受験のため」ではなく、「大学に入学した後の学習のために学んでいくべきだ」と説明してほしいですね。 

 いや、大学に進学しない人たちにとっても、高校までのカリキュラムの多くは、職業生活や市民生活の上で役に立つものです。単に仕事に役立つ、という点だけで考えるのではなく、社会の出来事を理解したり、歴史や文化を享受して人生の愉しみにしたりするような意味も含めれば、高校までの学習が、その後の人生の豊かさや広がりの基礎になります。 

 だから「受験のために学ぶ」というのは、勉強の目的を矮小化しすぎているように、私は思います。

 ちょっと脱線しました。

 第三のポイントは、「若い人たちは余計なことを考えなくてよい」という経済の仕組みが作られていたということです。 

 経済システムのほうからいうと、基本的に好景気が長く続いたこと、その中で、「会社が人を育てる」というふうな慣行や文化が作られていた、ということです。高度成長そしてバブル景気と1990年代初めまでは好景気が続いており、普通高校では「何のため」も考えずに勉強さえしていれば大学に進学した後の就職は何とかなりましたし、職業高校では、まじめにやっていれば、学校推薦でどこかに就職させてもらえました。学校でそれなりにやっていれば、会社が訓練して育ててくれる日本的雇用があるから大丈夫という安心感があったのです。会社に入ってその会社の一員としていろいろなことを学んでいけば、定年まで会社が人生を保証してくれるような生き方が見込めたわけです。 

 企業は、新入社員に特段の技能やスキルを求めず、一般的な基礎的学力があればそれで十分で、会社に入ってから社内研修やOJTなどで教育をする、というふうな感じでした。だから、そこでは学力はその中身が問われることもなく、学歴が一般的な知的能力・選抜の指標としての価値であって、たとえば大学で何を学んだのかよりもどのランクの大学へ行ったのかということに意味が与えられていました。 

 第4のポイントは、政治の状況も関わっている、ということです。経済成長を背景にした利益分配型の政治は、「社会のあり方をまじめに考え、社会を変えていく」市民を必要としておりませんでした。政治家と業界団体と官僚とで物事を決める。利害の調整とか、新しい問題提起とかは、業界団体と族議員が動いてやってくれるので、一般の人々はあまり政治にかかわらなくてもよい、という構図があったわけです。何年かごとにおこなわれる選挙で「○○先生」へ投票しておけば、「○○先生」は政治力を使って公共事業を地域にもたらし、そして雇用などの面で地域を潤したわけです。経済成長が続いている間は、一人一人が政治や社会に関心を持たなくても、いつの間にか地域が潤い、会社も順調にやれたし、豊かさが広がる中で、暮らしのさまざまな問題も自然に改善されていっているような経験をすることができました。 

 したがって、自分の職業や自分が生きていく社会について、若いうちにあれこれ考えなくても何とかなった時代だった。受験まで何も考えずにそこそこまじめに勉強しておけば、その後の自分の人生はうまく回るだろうと考えてもよいような状況があったわけです。

 

(2)日本社会の大変動――高校教育の漂流 

 1)経済・政治の変化 

 ところが日本社会の大変動が起きます。 1つは経済のグローバル化と低成長時代の到来です。1985年のプラザ合意以来ドル安が世界経済に定着します。そうすると円高が進行し国内の企業は輸出が振るわなくなる。そうすると企業はグローバル展開しなければならない。国内でのフルセット型産業構造から、「産業の空洞化」が始まっていきます。多くの企業が海外から部品を調達したり生産拠点を海外に置くようになっていきます。それが本格的に始まったのは、1990年代ですね。これに伴って企業は正社員体制を捨て、一部の正社員と残りの従業員は非正規雇用者ということになったわけです。高卒労働市場は急速に縮小し、2000年頃からは大卒者の就職率も悪化してくるようになりました。大卒だからといって必ずしも正社員にはなれない時代がやってきます。 

 こうなるとわれわれは重大な選択を迫られてきました。それは従来から続けてきた日本的企業システムをさらに維持するのか、それとも大胆な構造改革をやって経済システムや企業経営の効率化を目指すのか、あるいは、低成長でも困窮層を作らないより公平な社会を目指す再分配か、という選択です。「めざすべき社会」をめぐってみんながちゃんと考えて、議論し、決定していかねばならない時代がやってきたわけです。 

 次に政治の転換も重要です。戦後長らく続いた利益分配型政治の終焉です。利権をあさる族議員や、省益にこだわる官僚が叩かれるようになりました。同時に、1990年代〜地方分権化が進行していきます。2000年には地方分権一括法の成立で、地方の責任が一気に高まりました。併せて地球規模の問題であるグローバルな課題が噴出してきています。京都議定書(1995年)のように、国境を越えて問題の解決を議論しないといけないような問題がたくさん出てきました。 

 それは、「国が何とかしてくれる」時代の終焉でもあります。地方分権によって、地域でみんなが考え、議論し、判断することが必要になってきました。と同時に、グローバルな課題(経済や環境やセキュリティなど)についても、賢明な世論が醸成されることが必要な時代になりました。このため教育では、一人一人が社会のことを考え、自ら社会に関与して意思決定させていく、能動的な市民を作り出していくことが必要となってきているのです。  

 2)教育の環境変化

 さてその一方で、教育もこの間変化してきました。まず大学に入りやすくなってきた。受験競争はむしろ受験生集めのための大学の生き残りを指すようになってきた。少子化も進み大学の間口も拡がったわけですね。1980年代末から大学定員が増加していきます。急増する18歳人口への対応が80年代末の課題で、臨時定員増がなされました。92年以降の18歳人口減少期になったとき、文部省はそれまでの大学の総定員管理政策を放棄しました。その結果、臨時定員はそのまま定員化されるとともに、大学や学部の新増設が広がっていきました。子どもが少なくなっていく中で、新しい大学や学部・学科がどんどん作られていくようになったわけです。「受験競争」は軟化していきます。 

 90年代の末からは、選抜の多様化が進むことになりました。AO入試が導入され、特に入学者確保に青息吐息の大学が飛びつきました。もともとはペーパーテストでは測れないものを重視しようという理念だったものが、志願者(=合格者)確保の手段として使っていったのです。もはや、高校でまじめに勉強しなくたって、えり好みさえしなければどこかの大学には進めるような時代になってしまいました。   

 3)戦略の対立 

 経済や政治の変化によって、子どもたちの未来は不透明な時代になりました。何も考えずにまじめに勉強さえしていたら、どこかで安定した仕事にありつけて、会社や国が明るい未来を保証してくれる、という時代は終わりました。一人一人がきちんとものを考え、判断し、自分の人生や地域社会のこと、もっと広い社会のことを、責任持って動かしていかねばならない時代になってきていると思います。 

 もう一方で、受験競争が軟化し、「受験のため」という動機づけが、はなはだウソくさいゲームのようにみえる時代にもなってきました。 

 さてこのような時代を迎え高校教育は何のためにやればよいのかという問題が出てきます。教育論の中では、学校の役割をめぐって戦略の対立があります。

 1つは競争を再活性化するというやり方です。たとえば学校間競争ですね。子どもたちをけしかけるのではなく、学校同士を競わせて、それで学力を向上させようという目論見です。テストの得点だけをゴールにしたようないびつな競争があちこちで煽られています。また高大接続テストもそうですね、ともかくもテストがあるからそれに向けて勉強しろ、と言えるわけです。

 2番目は、普通科高校を作りすぎたと判断して、専門高校を増やそうという考え方です。「普通科の内容は、どう役に立つのかわかりにくい。だから子どもたちはろくに勉強しない。もっと有用性が実感できるような内容を学ばせれば、積極的に学ぶはずだ」という考え方ですね。職業的有用性へのシフトともいえます。 

 3番目は、市民形成の役割を強調する立場です。わたしはこの立場に賛成しています。たとえば受験のための世界史ではなくて、市民的教養としての世界史ですね。そういうことを考えていきましょうという立場です。 

 資料の9ページをごらんください。高等学校学習指導要領第2節地理歴史第1款の目標を確認しましょう。「我が国及び世界の形成の歴史的過程と生活・文化の地域的特色についての理解と認識を深め,国際社会に主体的に生きる民主的,平和的な国家・社会の一員として必要な自覚と資質を養う」とあります。これはまさしく市民形成ですね。

 今度は10ページを見てください。世界史Aの目標です。「近現代史を中心とする世界の歴史を,我が国の歴史と関連付けながら理解させ,人類の課題を多角的に考察させることによって,歴史的思考力を培い,国際社会に主体的に生きる日本人としての自覚と資質を養う」とあります。ほお、こんな科目なのか、と新鮮に感じませんか。わたし自身、世界史は暗記科目だとずっと考えておりましたが、学習指導要領にはそうは書いておりませんね。歴史的な視点を育成すべしということですね。ぜひともこのような学習を展開してほしいと思います。

 さらに理科に目を転じます。理科の目標はこうです。「自然に対する関心や研究心を高め,観察,実験などを行い,科学的に探究する能力と態度を育てるとともに自然の事物・現象についての理解を深め,科学的な自然観を育成する」となっています。OECDの成人調査では日本人の科学的リテラシーは世界の平均よりずっと低いんですね。しかし、この目標を読むかぎりは日本の教育はしっかりやってますね。共に市民形成の視点がベースになっていると思います。

 4番目は教育には「期待しない」という立場の議論もあります。教育はしょせん、勝ち組とか負け組みを出現させてしまう仕掛けにすぎない。みんなの人生の見通しが不明確になってきているからこそ、手厚い福祉国家をつくって所得の再分配をすればいい。教育をいじってなんとかしようとするのは間違いだという考え方です。 

 さて1番目の競争を活性化しようとする考え方は、目の前の子どもを勝ち組にしようとする教育です。しかし競争で勝ち残ったからといって、未来が約束されるわけではない。また勝ち組を生む教育は、必然的に他の子どもたちから負け組みを生み出すしかない。さらに個人のエンパワー戦略は、失敗者の失敗を自己責任化する。がんばってダメだったのは君の責任だということになりかねない。また自分のための学習は、私益中心の世界から抜け出せない。これは重要なポイントです。

 この点は、2番目の戦略も同じです。たぶん普通科目よりは職業科目を教えるほうが子どもたちの食付きはいいかもしれません。将来の職業に直結しているように感じられるからです。ただそれは、就職市場での競争に勝ち抜ける、という像だともいえます。「他者」は競争相手にすぎない。その意味で、「進学のための勉強」と大差はなく、自分を基点として世界を狭く理解している点で同じことですね。

 職業教育へのシフトには、さらにもっと大きないくつかの難点があります。手強い議論なので、ちょっとしつこく話します。第一に、職業教育が増加したとしても、だからといってその分野の雇用の数が増えるわけではない、ということです。たくさんの普通科高校を専門高校に転換していったとしたら、おそらくすぐに特定の分野の卒業生は飽和してしまいます。そして、学んだけれどもそれを生かせる仕事に就けない、という卒業生がいっぱい出てしまうでしょう。現実に高校卒業生に開かれている求人は、この20年でずいぶん様変わりし、多くは単純技能労働や不安定な仕事が大半です。特定の専門に向けた高校教育を増加させることは、すぐに幻滅を生むことになるでしょう。 

 ついでにいうと、世の中の多くの仕事は、職業教育による技能よりも一般的な知的訓練こそが有用です。たいていの仕事は、入職した後に具体的なスキルやノウハウが習得されます。

 第二に、高校教育で職業教育をやるのは、実はあまり機動的ではない、と思うのです。ある時、労働問題の専門家と論争したことがあって、その時私はこういう話をしました。何か新しいスキルの指導方法を学習指導要領に盛り込んで学校教育で実現するには10年くらいかかる。学習指導要領を作り、それに沿った教科書を作り、それを使った授業のプランを開発し、3年かけて第1期生を送り出す。その時には新しいスキルはもはや陳腐化しているかもしれない。労働市場の状況がすでに変動しているかもしれない。ですからそのような時代に即応したスキルの習得は、厚生労働省等が実施する短期の職業訓練などを充実させることで達成すればよい、といった話をしました。

 第三に、専門高校を増やしていく仕組みは、15歳で自分の未来の職業を決めるような社会を作り出してしまう、ということです。普通科高校が多数派であるような日本社会は、大多数の子どもに将来を未決定にして高校教育を受けることができる仕組みだといえます。18歳までに自分の将来の方向を決めればよいというほうが、保護者も子どもも十分な検討ができるはずだと思うわけですね。

 文科省の学校基本調査によれば、実際には、高卒で就職する者の割合は十数パーセントです。多くは大学や短大、専門学校に進む社会になってきています。次の学習の段階で必要なもの、有用なものを高校で学んでいるのだ、というふうに考えれば、普通科目はかなり有用だと私は思います。ただし、前に述べたように」「受験のため」ではありません。

 かつてのように受験競争で勝ち抜いた者もそうでない者も、それなりに安定した将来が約束されるような社会、という像は、低成長とグローバル化の中で、大きく揺らいでいます。だからといって、目の前の生徒を「勝ち組」にしようとする教育に没頭していたら、どこかで「負け組」の生徒たちがどうしても生まれてしまうことになります。

 だからもっと発想を変える必要があるのではないでしょうか。教育を通して「みんなでより良い社会をつくろう」という動きを作り出す、そういった戦略が必要ではないかと思うのです。個人的には、教育を通して社会を考え議論し判断する市民をつくることが重要だと考えています。

 昨年(2010年)7月に内閣府で「子ども・若者ビジョン」が策定されました。わたしも素案づくりに関わりました。その理念の中に、「自己を確立し社会の能動的形成者となるための支援」というフレーズがあります。これは画期的なことです。それ以前の青少年は非行対策や貧困対策など「対策」の対象でしたから。ただ、90年代に子どもの権利条約が批准されて相当考え方が変わってきた。その成果をさらに一歩進めたのがこのビジョンだと思います。その中で子どもの社会参加の方策として、シティズンシップ教育、インターネットを活用したコミュニケーション、各省庁で策定する政策への参加などを計画していますし、一部実施をしているところです。中央の行政では、能動的に社会を作り出す主体になってもらう、という若者政策が進み始めているわけですね。

 社会の出来事に目を向け、それをきちんと理解し、積極的に関わるスキルやセンスを持った若者になっていってもらうこと――高校教育の段階でも、そのことを意識して学習させることが重要であると考えています。むろん、「教育目標の二重性」の問題があります。そういう目標を掲げて教育してみても、全員が能動的な市民になってくれるわけではありません。でも、今の社会にきちんと目を向け、社会をつくりかえようとする5%の市民が、もしも30%になれば、確実に社会は変わるはずだ、と思います。EU諸国の高校段階の教育は、そうした市民形成を重要な目標に据えています。日本もようやくそういうことを考えねばならないことに気づき始めているのだと思います。

 

 〔4〕高邁な理念に向けて何ができるのか 

 (1)地方でできるようになることは増えているし、おそらくさらに増える 

 ここまでの話をちょっとおさらいしてみましょう。学習指導要領に記載されている目標にあるような市民形成という高邁な理念が棚上げになってこれまでの高校教育は進んできました。しかしポスト高度経済成長の社会がここまで進んでくると、もう一度この高邁な理念の実現の可能性を考えていかなければならない。「受験のため」に勉強をさせるというのではなく、市民として十分な力を身につけるために勉強をするのだよ、というふうに、生徒に説明できるような高校教育のあり方を考えていただきたい。

 それでは高邁な理念に向けて何ができるのか、それを考えていきたいと思います。まず、地方レベルでできるようになることは増えているし、おそらくさらに増えるということを指摘したいと思います。とくに高校は1980年代から各自治体で固有の改革が行なわれてきています。小中段階では無理だが、高校段階では各地で自律的な改革が行なわれてきています。ユニークなことを考えて、提案して、実現することが可能です。ですから教育委員会関係者も校長先生や教員も思考停止していたのではダメですね。いろいろなアイデアを出し、議論し、提案し、実現していってほしいと思います。

 

 (2)やっていくべきこと 

  1)法令を読みこなす

 その際、とくに必要なのは法令を読みこなすことだと思います。それは「法令を逸脱しないために」ではなく、「どこまで自由にやれるのか」を確認したり、法令を柔軟に解釈して使いこなしたりするため、あるいは、新しい法令や条例・規則の制定を求めるために、しっかりと研究していっていただきたい。「規則やルールを守る」だけでは不十分で、「規則やルールをうまく使いこなす」、さらには「規則やルールを変える/作る」といったレベルで新しい教育の可能性をさがしていっていただきたい。

 郷原信郎さんは「法令遵守」のかけ声により思考停止の状態が進んでいる弊害を厳しく批判しています。彼によれば「法令の具体的規定をそのまま『遵守』するのではなく、法令の趣旨・目的と基本的な解釈を自分の頭で理解することによって社会的要請を把握すること」であり、「社会的要請という観点から考えれば、法令の適用の妥当性を判断することもできる」はずなのです(郷原『思考停止社会』講談社現代新書)。

 教育行政や学校経営は様々な規則やルールに基づいて行なわれているけれども、その規則やルールは、うまく使いこなしたり、作りかえたりする余地が残されているはずですね。その研究を進めていただいて工夫されたらよいと思います。

  2)学校に自由を保障すること

 第二に、その際には、各学校で創意工夫できるような自由を保障することが必要です。上からの改革がダメなのは、現場の人たちにとって押しつけになってしまうことがしばしばだからです。中学までとちがって、高校は、各学校でそれぞれまったく状況が異なっています。個々の学校や教員が創意工夫してくれないと、分権化した仕組みは機能しません。学校で自由になるお金や人をもっと増やしたり、カリキュラムや方法の自由度を保証して、現場の先生方がやりがいをもって創意工夫していけるような仕掛けを作り出してほしいと思います。「工夫してやってみたら面白かった。だからまた頑張ってみようか」と先生方に思わせるような雰囲気を作り出していってほしいと思います。  

  3)多様な教育の可能性について、もっと勉強すること 

 そのためには、多様な教育の可能性について教員個々による研究も必要ですね。これはとても重要なポイントです。これまでの教員は学校の中で様々なスキルを獲得してきました。それは先輩教員からの指導などが中心です。大きな変化がない時代にはそれでもよかったけれども、社会が大きく変化しており、学校も大きく変えていかないと、という時代には、このような先例から学ぶだけの経験主義ではダメですね。学校の外から何かを探してくる姿勢が一つ必要だと思います。学校関係者で共有されている以外のものから何かを得ること、たとえば大学の「○○教育学」から見つけ出してくるといったことを挙げておきます。それは、フィンランドの教育であったりシンガポールの教育からでもいいし、デューイを読みなおしてみるとか、柳田国男の著作からヒントを得るとか、何でもいいんです。目の前の学校にはないもの・ことからヒントを得ることが大事ですね。

 繰り返しますが、みなさんには多様な教育の可能性についてもっと勉強してほしいと思います。「まだ目の前にないもの」を探すというクリエイティブな仕事を通して、新しい学校を作るというエキサイティングな作業ができるわけです。その時のアイディアもこれらの研究から生み出されるのではないかと思います。

 教科指導の部分にかぎっていうと、教育関連の法規や学習指導要領、教科書からそこから何を切り出してどう教えていくのかは教員の力量だと思います。受験のためと称して効率的に教えることもできるし、市民形成などといった新しい認識を身につけさせるために教えることもできるわけです。これまで全員が受験で勝者にはなれないというお話をしました。また全員が就職で勝者になれるわけでもないというお話もしました。そういう時代だからこそみんなが社会のことを考えられる基礎的なスキルを高校で身につけることが大事だと考えています。図1を参照していただきたいと思います(図1:何をどう教えるかの自由さ・・・注)図省略、Pdf版を参照)。どういう視点を設定して、どう掘り下げていくかは、個々の教員や個々の学校によって、創意工夫の余地が限りなくありそうです。

 

 〔5〕いくつかの必要なこと 

 最後になります。

 では改めていったい何を高校で学ばせようとするのか。わたしはこれまで個人的に考えていることをお話してきましたが、本日参会のみなさんが教育の専門家としてどこまで新しいことを考え、探していってくださるのかといったことは、みなさん次第だと考えています。社会の現状とこれから、子どもの現状とこれからについて、みなさんの洞察力や構想力が問われるのだと思います。

 いくつかの必要なことをお話して終わりたいと思います。 

 一つは、これは繰り返しになりますが、職業人としての準備の教育を考えてみます。たとえば進路多様校などでは、世界のことを考えるのは無理ですから自分の将来をきちんと考えなさいという教え方をしています。それはそれでいいのですが、高校生全員が全員、自分の将来の職業のことしか頭にないというのでは困る。

 比較的余裕のある子どもたちに対しては、是非自分のこと以外の広い世界について考える機会をつくってほしい気がします。自分の日常世界の外側にある世界の問題を考えたりそれに触れたりする機会をつくっていただきたい。それが市民形成としての教育につながりますし、「世の中の役に立つ仕事をしたい」といったことを考える機会にもなるだろうと思います。

 その市民形成についての教育について考えていきます。別に王道はありません。基礎学力は重要だと思います。文字の読み書きや論理的な思考力はとても重要ですが、そのうえで自分が学ぶ内容はどの世界とどうつながっているのかを考えさせるような授業を工夫してほしいと思います。最初にみた資料の図(代理的提示)を再び確認してください。1つはカリキュラム化された知を日常の生活世界(図の右側)とつないで考えてみる。高校で学んでいる事柄が自分の日常とどうつながっているのかを理解できれば、学習内容の意義や有用性を理解することができる。もう1つは将来の職業や公的生活(図の左側)とつなげてみる。それによって今学んでいることが将来の何につながっているのかを理解させることも重要だと思います。加えて教員自身が現代の世界・社会についての見識を深めていくことも大事です。

 図2を見てください。(図2:教育目標の多層・多元性・・・注)図省略、Pdf版参照)

 教育の目標は自立のレベル、共助のレベル、公共への関心・関与のレベルに分かれており、これまでのお話した進学のための教育や就職のための教育は、自立のレベルの教育です。学校での集団生活による学びや、部活や友人関係を通した学びといったことは、共助のレベルの教育・学習です。これは日本の学校制度では割合しっかりやってきているところですね。ただこれまで少なかったのは一番下の公共への関心・関与のレベルです。字むんの身のまわりの向こう側にあるもの目を向けさせる教育の側面が弱かった。ですからそこに目を開かせるような教科指導や教科外活動を実施していただければおもしろいかなと思います。

 すなわち自立や共助だけでなく、公共への関心や関与を育む高校教育ですね。モデルT〜Vのように、そこにはいろんなやり方や考え方がありえます。どういうモデルであっても、とりあえずはいい。広い世界に目を向け、自分の生き方を考える。それは、社会性という点での成熟だと思います。対人関係をそつなくできるのが社会性ではなく、社会の一員としてのしっかりとした考え方やかかわり方ができるようになる、ということこそが社会性だと思います。高校生が卒業までにそういう意味での社会性を身につけた、一人前の大人になっていくような高校教育を進めてほしいと考えています。

 それではエピローグとしてわたしの大学での話をします。わたしは担当する「教育社会学」の最初の講義で学生たちにこんな話をします。「きみたちはひょっとして試験で良い成績を狙うためにこの授業を受講しているのか? それだったら意味がない。十数回の講義の中で教育を社会学的に見ていく中で自分なりに新しいものの見方のヒントが隠れているはずだから、それを見つけ出せ。試験はいっときだけど、身についた新しい見方は一生使えるはずだ。評価のために勉強するのは倒錯した状況であり、この授業の評価なんかきみたちの一生にとってほとんど意味はない。そうではなくて、私がきみたちにしゃべる中身から、良い物を探し出せ」と。まあそういう言葉に反応して、話の中身から新しい見方を獲得してくれる学生ばかりではありませんが、これと同じことを高校教育にも言いたいと思います。つまり進学や就職のための手段としての高校教育ではなく、高校で学ぶコトやモノが自分の生きていくことにとって意味がある高校教育、みんなで社会をつくっていくことにとって意味がある高校教育――そんな学びができるような高校教育であってほしい。手段としての教育ではなくてそれ自体が有用性のある教育であってほしいと願っています。

 以上でわたしの話を終わります。

                        

 

  広田 照幸教授の講演資料を掲載しています。

   (図をクリックして広田先生の資料をご覧ください)  

  

  平成23年度高経研夏期シンポジウム
   「研究紀要第1号」(H23.7.31刊)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

平成22年度夏期シンポジウム報告

 ◇シンポジウムテーマ:高大接続テスト(仮称)を探る
                 〜高校教育の質の保証〜


  開講式抜粋 (辻 敏裕 高経研会長)

 さて今回学習指導要領が改訂されました。21世紀は知識基盤社会を生き抜くため生きる力の育成が求められています。皆さんご存知のドラッカーは、ポスト資本主義社会は知識社会であると言っております。彼は、「知識社会では生きた知識が教養として求められ高度に専門的な知識を有機的に連携結合し有効なものとする、そのために必要なものがマネジメントである」と強調しています。この「知識社会における教養教育のあり方」はこれまでも高経研で学んできたところであります。以前から前田名誉会長が例会を中心として提唱されており、「北海道を元気にする高校教育」の中にも名誉会長の論文が載せられておりますので、改めて再読していただきたいと思います。その中ではコミュニケーションを中核とした学校経営が求められるとともに高校教育の質の保証の重要性が強調されております。本日は、高大接続テスト(仮称)を切り口として高校教育の質の保証と高大接続のあり方について具体的な議論をする中でその内容の理解を深めていきたいと考えています。
 本日は北海道大学公共政策大学院特任教授佐々木隆生先生をお招きして基調講演をいただくとともに、午後からは基調講演を基にシンポジウムを行い、佐々木先生を含めて旭川東高校の小島先生、真狩高校の若林先生、留萌千望高校の猪瀬先生といった3人の校長先生と併せて4名の先生方にパネリストを依頼したところです。会場の皆様と一緒になって議論を深めていければと考えております。高大接続テスト(仮称)については、実施形態・導入時期等は未定ですが、具体像の確定に当たって北海道からの提言が活かされるような議論にしていきたいと考えておりますので皆様には活発な議論をお願いしたいと思っております。





  基調講演要旨 (佐々木 隆生 北大公共政策大学院特任教授)
     ◇演題:高大接続テスト(仮称)と教育改革

  〔「高等学校段階の学力を客観的に把握・活用できる新たな仕組

   みに関する調査研究」報告書(H22.9.30)〕pdf版 


 高大接続が機能不全となっている原因は、AO入試や推薦入試といった非学力選抜が我国の大学入学者選抜の5割強を占めるようになってきている現状に求められます。特に私立大学ではその傾向が顕著であるということです。そのため、無理に非学力選抜を実施しなければならないほど大学をたくさん作り過ぎたのではないかという声が聞こえてくるようになりました。しかしこの議論は根本から間違っている。知識基盤社会という今日の現状を見ると我国の大学進学率は決して高くはないのです。資料は2007年なのでやや古いが、オーストラリアやニュージーランドは85%、台湾や韓国は80%を越えている。西ヨーロッパのノルウェー・フィンランド・スウェーデン・アイスランドではいずれも70%を超えている。そしてアメリカでも60%を超えている。日本より大学進学率が低い国は、発展途上国やドイツ・フランスなどの国々しかないのです。日本は一部の大学だけが受験倍率を確保しその他の大学はやせ衰えている。加えて大学交付金も減らされている現状がある。したがって大学教育全体がやせ衰えていると言えます。これは高校教育にも影響が波及しており、進学校以外の高校生がAO入試や少数科目入試を狙うあまり履修の幅が狭くなってきている、つまり普通教育の質が低下してきているという高校教育の底が抜ける状態となってきているということです。昭和22年に制定された学校教育法における我国の学校制度では、高校教育の使命は高等普通教育を施すと規定されている。しかし現在の学校制度では普通教育がきちんと行われているのかといった疑問を抱いて、高大接続テストを私たちが提起することになったのであります。

 我国の高大接続は国際的には非常に特殊である。例えばアメリカではACTと呼ばれる共通テストがある。ヨーロッパ諸国では高校卒業資格と大学入学資格を兼ねたフランスのバカロレアやドイツのアビトゥーアが有名である。またドイツの場合はギムナジウム、フランスの場合はリセと呼ばれる高等学校を卒業すると大学入学資格が与えられます。イギリスではGCEと呼ばれる年複数回行われる共通テストにおいてAレベルで合格すると大学入学資格が与えられることになっています。日本では高校卒業資格は校長によって与えられ、大学入学資格が生ずる。このような仕組みは世界では稀なのです。すなわち教育上の高大接続を保証する共通テストが無いのです。もっぱら大学が個別に実施する学力試験が教育上の学力把握を担い、学力判定はその選抜機能に依存してきました。なぜこのような制度が日本に定着してきたのかを考えると、大学進学はエリート層に限られていたという現状があったわけです。それは大学進学率が30%を下回る状態が平成6年度まで続いていたことでも明らかです。その状況は昭和50年代に大きく変化しました。それは大学受験競争の激化であります。そこで平成3年の中教審答申「新しい持代に対応する教育の諸制度」が出されたが、それは高校進学率が90%を超えているにもかかわらず大学進学率は30%を下回っている現状を考えると高校教育の画一化は不合理であり、高校の多様化・高校教育課程の弾力化・入試の多様化と評価尺度の多元化を図る必要があるということでありました。特に平成元年改訂の学習指導要領により必履修科目が劇的に減少したのは記憶に新しいと思います。これによって選択科目が増えたが、それは平成11年の学習指導要領に繋がっています。ただ、今考えると、この平成3年の中教審答申にはなお一層学力把握機能が個別大学の入学選抜機能に依存するという落とし穴がありました。そのため高校教育が大学入試に振り回される結果となりました。加えて入試の多様化と教育課程の弾力化により高校現場の進路指導が複雑になった。このように日本型の高大接続は完全に機能不全に陥っていると言えます。結局、やせ衰える大学教育と底が抜けた高校教育が今に残っているのであります。 

 こんな話がある。ある法科大学院の学生になぜ殺人はいけないのかと問いただしたところ、刑法に書いてあるからという答えが返ってきたそうです。この学生との応答には重大な問題が隠されていると思います。大学における教養教育や一般教育が減少し専門教育ばかりが増えてくると、専門以外の教養が抜けてくるのです。それでは学問の本質を究めることはできない。どんな学部の学生にしろ、例えば自然科学や人文科学の総合である一般教育を充実させなければ二流の専門家をもたらすだけになるでしょう。アメリカでは大学の教養教育はしっかりしているし、ヨーロッパではリセやギムナジウム段階での普通教育は実に充実しています。例えば古典教育があり哲学教育がある。この部分が日本ではすっぽりと抜け落ちていると言わざるを得ません。これからは日本の知識基盤社会のインフラを整備していかなければならが、それは高等学校における普通教育の充実に他ならないと私は考えています。高大接続テストの導入により、それを実現しようとしているわけです。

 先日文部科学省初中局の教科調査官とこんなやりとりをしました。件の教科調査官はとにかく高等学校で必履修である科目について大学入試センターの入試問題で出題してくださいと言ってきた。しかし私は2つについて反論しました。1つは、平成3年の中教審答申で教育課程を弾力化すると言っており、もはや高校で普通教育を完成することはできないと文科省も認めているではないか、しかし我々は高大接続を必要としており高大接続を考えない教育課程を学習指導要領で告示する文科省の姿勢は矛盾しているということです。ですから、文科省を超えてむしろ高校関係者と大学関係者が高大接続に必要な必履修の範囲を考えていかなければならないということです。2つは、高大接続に必要な教科・科目の範囲と水準は何十年と変わっていないにもかかわらず、10年ごとに改訂される学習指導要領によって大学入試が振り回されているということでした。こんな馬鹿な話はない。高大接続とはずっと普遍的で安定したものであるべきでだと主張してきました。このように文科省が告示する学習指導要領に共通の学力把握という機能を依存できないのであれば、高校関係者と大学関係者でその機能を作っていかなければならないのです。それは私どもが力を合わせてやっていきましょう。

 さて高大接続テストとはどんなテストなのかについて話をします。一番重要なことは、今高校生に勉強させなければならないのは、基礎的な教科・科目であり普通・総合・専門に共通する科目であることです。現在までの共通テストは集団準拠型テストでした。大学入試センター試験は基礎学力を測ると言っているけれども平均点を60点になるよう想定している。北海道大学の試験も同様である。しかしこういう試験は、ある母集団を一定数選抜するために実施するようになっています。したがって偏差値というものがたいへん重要視されております。しかし接続テストは目標準拠型テストであり現在の高校教育の評価と同様です。大学入試センターの国語Uの問題では源氏物語や枕草子が平成9年以降出題されませんでした。これは過去に源氏物語や枕草子が出題されたことがあるため、公平性の観点から類似の出題を避けたためでした。しかしこれはおかしな話である。高校生が必ず学ぶ源氏物語や枕草子を出題できない試験であることにセンター試験の限界があると思います。そうではなく高校での教科書に掲載されるような基礎的学習の達成度を測るという目的に徹するべきなのです。また高大接続テストを複数回行うことに疑義を唱える人もいますが、現在でも高校では複数回の定期テストを実施しているのでありなんら不都合は無いのではないかと考えています。生徒に何度も負荷を与えるなと主張する方もおられるが、それであれば生徒からテストを通じて学ぶという機会を奪っているのではないかと反論したい。今までも高校の先生方は1回限りの受験で人生が振り回される国立大学入試制度でよいのだろうかという疑問を提示されておりました。イギリスでもアメリカでもテストは年複数回実施されている。自分はアイビーリーグの大学に行きたい、州立大学にいきたいという生徒は目標とするスコアを獲得するために高校2年から何回かチャレンジするといった努力をしているわけです。高等学校の現場でも高校生から見てもそれぞれの生徒に合うような目標達成水準が見えてそれを達成させるような仕組みの制度設計が必要じゃないかと思うのです。もちろん専門学科や総合学科には、そこで行われる教育内容に合った選抜を行うように大学側でも工夫していきたいと思っています。ですから高校現場でもどのような生徒を育てていくのかを先生方が一緒に考えていただきたいと切に思っております。そうでなければこれからの高大接続テストの論議も行き詰っていくでしょう。

 次に試験文化を変えていかなければいけません。これまでの日本の試験は素点方式による古典的テスト理論に基づいています。当然ですが、母集団が変わると得点分布が変わりますし平均点も移動します。それゆえ様々な標準化のために偏差値が用いられています。偏差値による評価は母集団が変わると評価すること自体が難しいのです。アメリカで行われているTOEFLなんかがそうですが、IRT(項目反応理論)・標準化テストを使います。どのようなものかというと、受けている人ごとに試験問題が異なっている。違っていても絶対評価が可能な試験になっている。どこかで予備的な試験をやってそのデータを蓄積していき、本試験のときダミーの試験を入れてどのような得点分布になるのかデータを取っていきます。このデータを使って安定した問題を作成することができるのです。したがって特殊な試験問題を作成する必要がなくなる。そして試験内容は教科書などに記載されているような基礎的な内容になっていきます。必然的に授業における基礎的内容が重視されることになってくるのです。高大接続テストはこのような試験にしていく計画です。

 最後に高大接続テストは実際にどのような内容にするのか、教科・科目の範囲をどうするのか、基礎的な学力をどのような範囲で考えていくのか、これらについて今後私たちが詰めていかなければなりません。学習指導要領任せだった高等学校教育に代わって高大接続を見据えた高等学校と大学の先生方の共同の作業となります。我々の調査研究の成果は文科省に引き取ってもらうことになるが、諸団体の代表が集まった協議会を作り高大接続テストの開発研究を行っていかなければいけなりません。ただ高大接続テストが導入されたからといって現在の高大接続が抱える問題を全て解決できるということではないということです。たとえば高校教育の改革が今後必要になります。特に七五三といった中高接続と高等学校での学習達成度の確立と高大接続を視野に入れた教育課程の開発などを行っていく必要があるでしょう。また非常に複雑な思考力や表現力を問う問題を高大接続テストに負わせるわけにはいきません。そういったものを高等学校教育でどのようにやっていくのかを考えていかねければいけないでしょう。そのためには高大連携の組織的に推進していく必要があります。全高長はAO入試や推薦入試のためには高大接続テストは良いといっているがこれは本質を突いています。共通テストが導入されると安心してAO入試や推薦入試ができるようになってくる。そうすると詰まらない重箱の隅を突く様な問題の出題がなくなり欧米型の選抜になる。ただしそれで済むわけではなく、難関大学では個別の試験問題を実施することになるでしょう。ただし選抜力がある大学がそんなにあるわけじゃありません。せいぜい5%程度のものだろうと予測しています。ただ、今のような暗記力だけを問うような馬鹿げた問題を出す必要はなくなります。記述式の問題を出題することができるようにもなるでしょう。それから、高大接続テストを導入していく中で我々が提起している重要な問題は4月入学制度の問題です。3月に卒業して4月に入学するほど馬鹿げた制度はないのです。これはたいへんおかしな制度である。大学の入学試験が2月から3月に行われるため高校のカリキュラムが3月まで完全に行われていないじゃありませんか。高校の最後まで授業はきちんとやるべきです。3月卒業4月入学という学年暦は選抜が入る段階から変えていくべきです。

 

 長々と話しましたがこれで私の報告を終わらせていただきます。私のメールアドレスは公開しておりますので何かありましたらいつでもご連絡ください。どうもありがとうございました。

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佐々木隆生教授の論文が掲載されています。

 月刊高校教育2010年1月号

(株)学事出版          

 

 

 

 

 

 

 

 

◇シンポジウム研究課題:新学習指導要領と学力問題〜高校教育の質の保証と高大接続〜


  提言T要旨 (小島 修二 北海道旭川東高等学校長)
    □「高大接続テスト(仮称)を探る〜高校教育の質の保証〜」
      に思う          研究参考資料掲載原稿.pdf  

 本日佐々木先生の話を聞いて高大接続テストについてだいぶ理解ができました。私は高大接続について体系的なお話はできないので、高校現場での体験を基にお話をしたいと思っております。私は現在まで10校に勤務してきました。道東での教員生活が20年程度を占めますけれども、学力問題については様々な学校を体験しました。入試点が1桁の高校もあり札幌南高校のような進学校まで幅が広い。その中でまさしく多様な高校生と接してきております。ところで北海道の大学進学率は40%程度であり全国で最低レベルだそうです。そのためかいつも北海道の学力問題について考えています。

 それでは本題に入ります。現在の勤務校には3つの学校があるといつも言っています。全日制と定時制そして通信制です。定時制や通信制の生徒にとっては高校卒業資格の取得が目的であり、すべての生徒に学習達成度テストが必要なのかという疑問があることも事実です。高大接続テストの高校側の対応についてですが、高校に求められる学力とは何かということを考えていくことに尽きると思います。多様化する学力観の中で学ぶ意欲をどう育成させていくのか、それは学ぶ手段を確保していくことが大切だと考えています。これといって特徴がない普通科高校が抱える課題はそこにあるのではないでしょうか。大学では不足している学力の学び直しをしているそうですが、高校現場にいるものとしては申し訳ない気持ちがある。ただ、今後の大学入試の中で資格取得をどう扱っていくのかに興味がある。高校では積極的に資格取得を勧めているが、それを大学が正当に評価していく保証はあるのか否か。スコアのみを重視されると非常にきついなあと基調講演を聴きながら考えていました。ただ、普通高校の生徒にとって、高大接続テストはよい目標になるだろうと思いますので、高校生にとって設定しやすい目標を持てるテストにしていただきたいと念じている。





  提言U要旨 (若林 利行 北海道真狩高等学校長)
    □一人一人を真に大切にする教育

                  研究参考資料掲載原稿.pdf
 最初高大接続テストと聞いて非常に反感を覚えました。現実として大学進学にあまり関係のない学校で勤務してきた自分にとっては無駄な制度に思えたからです。佐々木先生のお話は今日で2度目ですが、私自身は2つの点について有効だと考えさせられました。1点は知識基盤社会を生き抜いていく子どもたちの育成に必要な教育政策として有用なものだと思いました。2点は価値観の多様化を図るうえで基礎基本の定着は必要であり、高大接続テストはその手段になるということです。

 それではこれからは勤務校の紹介をしながら高校の学力問題を考えていきたいと思います。勤務校がある真狩村は典型的な農村です。学校は村立の農業高校です。在籍生徒数は70名であり、内54名が寄宿舎で生活しています。入学生のほとんどは、中学生時代に満足な教育を受けていない経歴の持ち主です。したがって高校入学を機に自分を変えたくて入学してくる生徒が多いのです。そんな学校ですから自己有用感をいかに育てていくかが問われております。本校では資料にありますように様々な教育活動を行っております。村全体から支援を受けて中国への見学旅行の実施やカナダへの短期留学、そしてインターンシップの実施やボランティア活動などたいへん充実しております。それぞれの発表会では見事なプレゼンテーションをしますので、子どもたちの成長力には目を見張ります。どの農業高校でも日本農業技術検定を実施していますが、これなども大学入学の際の参考材料として活用してほしいと思っております。さて本題に戻りますが、本校のような生徒の実態を考えると高大接続テストのスコアの結果ばかりでなく、意欲も重視していただきながら選抜を実施してほしいと思っております。


  提言V要旨 (猪瀬 徹 北海道留萌千望高等学校長)
    □(社)全国工業高等学校長協会主催標準テストについて
                  研究参考資料掲載原稿.pdf

 留萌千望高校の猪瀬でございます。どうぞよろしくお願い申し上げます。本校は専門高校ですので、生徒の実習を活かした教育活動を展開しております。学校の紹介は詳しくは省きまして、私からは社団法人全国工業高等学校長協会主催の標準テストを中心にご説明したいと思います。このテストは工業科9系列に分けて実施しているものですが、個人的には工業科目を学ぶ生徒が自らの学習到達度を自覚し学習意欲を沸き立たせるのに重要な役割を果たしていると考えております。今後は標準テストの国際化基準に向けた活用方法についても探り、その実現を図るべく新たな指針を作成していく予定です。このテストの実施上の課題は工業科高校に学ぶ生徒全員が受検していく必要があるということです。平成21年度の統計ですが全国の工業科に学ぶ生徒数は約21万人とのことですので、その生徒たちを包含するテストにしていくことが目標となっております。

 ところで高大接続テストに寄せる期待としては、高校現場と大学側が一緒になって作りあげる試験にしてほしいということに尽きると思います。今後の議論に期待しております。不安な部分は、制度改革の規模が大きいこともあり広範囲な調整が必要ですので、その進捗状況が気にかかるということです。細かい部分では、高大接続テストが導入後も高校が作成する調査書がこれまでと同様に有効活用されることを希望しています。以上で発表を終わります。